鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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扱う対象はおもに文芸分野で活動する者であり、また実際の史料や作品を見るほどに、「面状に海のように」見える地方文人たちの分布にも、濃淡や階層性があり(注5)、固有の文化的文脈が存在することが実感される。本研究では、地方における画の「受容者」─特に北関東(注6)(上野・下野≒群馬・栃木両県域を中心に、茨城・埼玉・千葉県域の隣接する地域)の人々─を量的に把握し、その構造と文脈を理解することを目指し、書画・文学史料の収集・分析を行った。本稿では、焦点を崋椿系画人たちとの交流が深い上野国桐生・下野国足利を中心とする地域に絞って事例の呈示を行い、地方の「受容者層」の構造と文脈を考えることとする。1.書画会引札に見る「受容者層」の基本構造江戸時代後期、文久3年(1863)に上野国桐生町で開かれた大規模な書画会の引札を分析し、地方における受容者層の一例を提示する。上野国桐生町は慶長年間に造営され、当初の幕府直轄領から旗本領を経て出羽松山藩上州分領となっている。江戸から徒歩2日の距離で、日光脇往還や例幣使街道、渡良瀬川・利根川水系の流通路を活用し、絹織物の生産・集散地として栄えた関東有数の在郷町である。17世紀末から京都・江戸との取引があり、18世紀半ばには西陣からの高機導入により生産量が飛躍的に増加、東日本の絹織物市場に進出した。桐生の南東に隣接する下野国足利町は、足利学校を擁し歴史的・文化的には先行する町だが、織物産業では桐生の影響下にあり、経済的・文化的に不可分な関係にあった。桐生と江戸との文化交流は、上記の経済的地位の向上を受けて活発化している。寛政4年(1792)に上野不忍池の酒楼で詩人の山本北山ほか40余名の文人を集めて宴を開いた詩人・長沢紀郷(1750~1800)がその目立った嚆矢であり、菊池五山編『五山堂詩話』に多く詩が載り、江戸の文人たちと豪遊した佐羽淡斎(1772~1825)、近世後期の重要な国学者・橘守部の支援者の吉田秋主(1794~1858)はいずれも桐生の絹買商・機業家である。画家との交流も多く、建部涼岱が桐生・足利に多くの俳諧の門人を擁し、佐羽淡斎が編んだ『花濺涙帖(惜花帖)』(文化9年)には酒井抱一・谷文晁・五十嵐竹沙ら書画家37名が揃う。抱一・文晁との同席も多い狩野彰信は桐生の文人・玉上玉江(1752~1812)との姻戚関係が知られる(注7)。玉上家から独立した岩本茂兵衛に妹が嫁いでいた渡辺崋山は、天保2年(1831)に桐生に滞在している。その『毛武游記』『客坐録』(注8)では上記の文人たちの記憶に触れつつ、次世代との交流が記される。このように、桐生は近世後期の江戸のさまざまな画派と幾世代に―247――247―

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