鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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もわたって交流した土地であった(注9)。ここで取り上げる「桐生浄運寺石田九野建碑記念書画会引札」(以下、本史料。文久3年3月20日開催、会主:海棠石田八百女)〔図1〕は、崋山の『毛武游記』から32年後に桐生の中心地で開かれた大規模な書画会の引札である。会主の石田海棠(八百女)は桐生の織文に改革をもたらした図案家・石田九野(1807~61)の後妻。九野は桐生を訪れた崋山に紋織の仕組みを示し、その様子が『毛武游記』に記される。その後も本業の傍ら、藤森天山ら桐生来訪文人と盛んに交流したという。文久元年に死去。同3年、「石田九野碑」落成を記念して浄運寺で大いに雅筵を開き、300人あまりが集ったと「九野居士碑陰記」(文久3年12月、石原泉村撰・吉田錦所書)に記されるが(注10)、本史料はその引札と考えられる。横長の一紙に「琴棋書画詩酒聞人国歌連俳新俳風謡曲及古書画古器展観来賓名著」という長い題と開催月「文久三年癸亥季春」(3月)、会場「於桐生浄運精舎開筵」が刷られ、左端の会主名の上に実際の開催日が「本月廿日」と朱書きされる。6段に区切られ、重複を除き405名が記載される。招聘文人のみならず地方文人を多数掲載し、かつ書画に加えて他の技芸を題に含めるのは、上野・下野地方の書画会引札にみられる特徴である(注11)。本史料は「席上揮毫」をうたわないが、当地の書画会の通例から、遠来の文人たちによる席上揮毫が行われたと考えたい(注12)。本史料の際立った特徴として注目されるのは、記載された多数の地方文人の技芸の「分野」と「居住地」が共に明示されている点である。これを手掛かりに、地方文人層=受容者層の構造を検討する。ただし、本史料では会主以外の人名は雅号や名のみが記され、単独では人物の特定が困難である。本史料と共に、年代的・地理的に隣接する引札や書画関係史料(注13)からのべ約1200人の人名・分野・居住地情報のリスト化・照合作業を行い、特定を進めた。その結果、本史料記載者405名のうち、全体の2割程度にあたる83名の姓名が特定できた。最上段に「諸名家」として江戸などの著名文人52名を詩人・歌人・書家・画家の順に並べ、2段目以降に地方文人349名を分野別に配す。分野内では地名ごとに配列される。最下段には運営を支える「補助」22名が列記される。補助のうち15名と会主の石田海棠の名が「九野居士碑陰記」に見え、彼らは桐生町および近郊の者である。また9名は分野別の欄に既に出ており、重複する。幹事役の「会幹」は明記されないが、碑陰記撰者・筆者の石原泉村(1804~71)・吉田錦所(1819~81)(注14)がその役割を果たしたか。―248――248―

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