山とされ、行基や泰澄が寺院を開いた他、最澄も修行したことが『己髙山縁起』(応永14年〈1470〉)に記される。己高山の山中には、堂坊跡や寺院跡が数多く残り、眼下に琵琶湖の湖面を望む。己高山周辺には唐招提寺の薬師如来坐像との類似が指摘される薬師如来立像(9世紀・鶏足寺蔵)、興福寺北円堂の四天王立像との類似が指摘される木心乾漆造の十二神将立像(8世紀・鶏足寺蔵)等、南都とつながり、技法的に古様で正統的な作例が伝わる(注7)。浜名湖周辺で中央仏師の関与が想定される作例は12世紀前後に多い。この頃は平等院鳳凰堂や毛越寺等、全国に浄土庭園が造られた時期で、12世紀の阿弥陀如来坐像が伝わる摩訶耶寺に12~13世紀の池泉鑑賞式蓬莱庭園が残ることから、遠州地域にも水辺への浄土信仰が伝播していたといえよう。水辺の仏教文化圏を考える際、河川にも注目したい。例えば、岩手県平泉地域は衣川と北上川の合流付近の関山に中尊寺が位置する。衣川は12世紀まで蝦夷勢力との境界となった重要な河川で、北上川の水運による交易は奥州藤原氏の権力を財政的・文化的に支えた(注8)。12世紀には、衣川と関山、毛越寺や観自在王院の背後の金鶏山等を聖地とし、河川の水運がもたらした奥州藤原氏の財力や交易で伝播した文化を背景に、仏教文化圏が栄えたのだろう。静岡県内では、富士川流域西岸の旧富士川町地区に注目したい。新豊院の薬師如来坐像と聖観音立像は旧富士川町指定文化財で12世紀の制作である。宗清寺の阿弥陀如来坐像〔図8〕も、円満で穏やかな面相部、誇張のない体躯表現等から12世紀の制作と推定される。構造は厚塗の彩色と像底の板に遮られ確認は難しいが、頭部の耳朶後方に確認できる矧ぎ目から、頭体幹部は前後二材矧ぎ、または一材を前後に割矧ぎ、脚部は横一材を矧いでいるようである。宗清寺は眼下に富士川、遠方に広大な駿河湾を見下ろし、富士川の奥には富士山、駿河湾の奥には伊豆半島を望む。この景観が信仰心を生み、この地域に寺院の建立や仏像の造像が促された可能性は考慮してよいものと思われる。なお、宗清寺に隣接する等覚寺の前身は富士川渡船に伴う布施屋を運営していた四十九院で、布施屋の運営に足る財を成し得た四十九院が、豊かな仏教文化をもたらしたのかもしれない。各地域の事例との比較から、地域C・Dを天竜川流域の仏教文化圏と見ることができる。地域Dに位置し、観音堂付近から天竜川を見通す岩室廃寺跡は、山岳寺院であったと見られ、12世紀の大日如来仏頭〔図9〕や菩薩形立像等が伝わる。程近い極楽寺にも定朝様式の阿弥陀如来坐像〔図10〕が伝わる。玖延寺には定朝様式を示しながら、目鼻立ちの彫りが鋭く13世紀の制作と見られる阿弥陀如来坐像〔図11〕が伝わるが、当初はさら上流で川辺に近い慶谷寺(現在の大川地区)に伝わっていた点は注目される。―16――16―
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