桐生の重要な画家)が「画家」の欄に無く、「補助」や他の技芸欄に見えることに留意したい。すなわち、書画会という場の特性上、遠方から招待された「画」の名家の席上揮毫が期待され、名家の来訪は比較的遠方で有力な地方画家の参加を促す。本史料で主催側の者が「画家」に入らないのは、遠近の外来の画家たちへの遠慮が働いてのことであろう。以上、本史料記載の地方文人から、桐生地方の書画の受容者層は、多様なレベルの教養と様々な技芸を持つ人々から構成され、かつ特段技芸を持たない者も含まれることが一望できた。一方で、高水準の画技を持つ「名家」による席上揮毫が期待される書画会という場において、地方サイドの参加者に関しても、より高水準の者の参加を広い地域から促した可能性を考えた。この「画の広域性」については、幕末明治期に多くの南画家たちが遊歴生活を送った前提条件として興味深い。今後他の史料と照合し妥当性を検討したい。2.受容者層の文脈を読む次に、記載される人名を他の史料と照合し、文化的文脈の読み解きを行う。まず追善対象の石田九野が印象深く登場する渡辺崋山『毛武游記』『客坐掌記』、加えて椿椿山の『足利遊記』(注19)(天保13年)と本史料を照合する。『毛武游記』『客坐掌記』に登場する人物が本史料で確認できたのは、崋山の甥で崋山に画を学んで作品を残した岩本喜太郎こと岩本一僊(1820~68)のみである。崋山来訪から30年以上が経過しており、世代交代が進んでいる。たとえば、崋山と意気投合した足利・五十部の代官・岡田東塢は、子の岡田行山(詩人)の代になっている。上州の重要な画家・金井烏洲(1796~1857、春木南溟門人)は、桐生からやや離れた島村(群馬県伊勢崎市)の住人だが、崋山滞在中は行動を共にしている。本史料には、5年前に亡くなった烏洲に代わって弟で画家の研香(1806~79)が載る。行山・研香とも当地方での書画会登場頻度が高く、有力な地方文人と考えられる。次に、椿椿山『足利遊記』と照合する。椿山は桐生には足を運んでおらず、「岩本と昵懇」と記述される下山佐助が登場する唯一の桐生人である。本史料では補助として、下山誠斎が載り、同一人物もしくは一族の者と思われる。地方文人としては足利の歌人・今尾清香、また館林の真嶋緑窓(元貞)が『足利遊記』と本史料に載る。このように、世代交代が進みつつも、岩本家以外にも崋山・椿山との交流の記憶を持つ人々が活動していたことが分かる。また、会幹と想定した吉田錦所は椿山への屏風の発注者であることが確認できる(注20)。―250――250―
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