鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴稲本万里子ほか編著『イメージとパトロン─美術史を学ぶための23章』(ブリュッケ、2009年)渡辺崋山・椿椿山の来訪記録との照合を行い、地域固有の文脈に基づいて地方文人が主体的に画家や文人を招聘している可能性を指摘した。引き続き書画・文学史料・作品の調査と整理を進め、本稿での分析を骨格として「受容者層」の解明を行いたい。地理的要素や地方文人同士の交流といった横軸、また関東南画の成立期、江戸中期まで遡る縦軸への展開を進めたい。近世絵画は、地域的・階層的に多様な出自を持つ画家たちが登場することで、豊かな成果を得ている。彼らの活動を支え、時には重要な画家を輩出した地方の受容者層の具体的なありかたを知ることで、近世絵画や画家たちへの深い理解につなげることができればと考えている。など。⑵近年の成果としては『美と知性の宝庫 足立─酒井抱一・谷文晁とその弟子たち─』(足立区立郷土博物館、2016年)ほか同館の一連の文化遺産調査特別展、尾張鳴海の豪商・下郷家に注目した『大雅と蕪村─文人画の大成者』(名古屋市博物館、2021年)、『椿椿山展 軽妙淡麗な色彩と筆あと』(板橋区立美術館、2023年)における椿山門人の地方分布の紹介などがある。⑶末武さとみ「渡辺崋山・門人たちと両毛文人のネットワーク─《風竹図》(吉澤松堂為書)・半香義会・書画会に関する資料を中心に─」『史談』35号(安蘇史談会、2019年)、末武さとみ「高久靄厓と吉澤松堂─人見伝蔵の靄厓研究をたどりながら」『歴史と文化』31号(栃木県歴史文化研究会、2022年)、『吉澤コレクションを読み解く─「関東南画の庭」で─』(佐野市立吉澤記念美術館、2023年)。⑷ここで杉は「在村文人」の語を用い、地方文人のうちの都市ではなく村で文化活動を行う者を想定している。しかし地方都市とそうでない土地を区別する意義を見いだせないため、本稿では三都以外に拠点を置いて文化活動を行った者を一括して「地方文人」と呼ぶ。⑸階層性については後述のとおり杉も指摘する。⑹「群馬・栃木・茨城」3県を指す語としての「北関東」は1931年の新聞記事が初出であること(松浦利隆「『北関東』の誕生」)、近世期の関東に国や街道より大きな地域認識は生まれなかった可能性がある(三宅秀和「江戸人の描いた『関東』」)等の議論・指摘がある(『関東に「北」はあるのか─「北関東」の成立とその虚実をさぐる─』群馬県立女子大学群馬学センター、2023年)。本稿報告者(末武)は、与謝蕪村や同時期の江戸派の俳人がこの3県域と隣接地域の俳人たちを訪ねて移動する事例(貞佐・潭北編『他むら』享保5年〔1720〕刊など)を念頭に置き研究題目を設定したが、上記の議論を踏まえ、今後も地域間の関係性を検討したい。⑺玉江は絹買商・書家で、建部涼岱門という。末武さとみ「狩野彰信と桐生、桐生と江戸の文化─玉上甚左衛門との関係から─」(『ハイブリッド狩野派─狩野素川彰信とその時代』展図録、静岡県富士山世界遺産センター、2020年)。⑻『毛武游記』『客坐録』は『崋山全集全』(崋山叢書出版会、1941年)の翻刻に拠った。崋山と桐生・足利については、上野憲示「渡辺崋山と毛武地方」『渡辺崋山』(栃木県立美術館、1984年)―252――252―

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