⑵ 国境の仏教文化とその交流地域Aの湖西地区は、応賀寺に平安・鎌倉時代の仏像が集中する。現状その他に同時期の作例は確認できないが、西に迫る国境を越えれば、11世紀の聖観音立像を筆頭に、半丈六の釈迦如来坐像や阿弥陀如坐像、等身大の四天王立像や不動明王立像等、12世紀の仏像群が伝わる普門寺がある。また、三遠国境に位置する弓張山系を越える多米峠の三河側には、12世紀の聖観音立像と阿弥陀如来坐像(ともに火災により亡失)、13世紀の愛染明王坐像が伝わる赤岩寺がある。さらに、多米峠北方遠江側の大知波峠には10世紀に伽藍が整えられたとされる廃寺跡がある。弓張山系を軸とした東西の地域に時を同じくして栄えた仏教文化圏は、峠を介した人的・物的移動が盛んであったと推察される。三ヶ日地区も同様で、三河国分寺と遠江国分寺を結ぶ本坂通りが横断する。本坂峠西の豊橋地区・嵩山には、正宗寺や万福寺に定朝様式の如来坐像が伝わる。また、嵩山の南方で大知波峠廃寺跡に近い十輪寺には13世紀の地蔵菩薩立像が伝わる。摩訶耶寺の千手観音立像(10世紀)と普門寺の聖観音立像(旧十一面観音立像・11世紀)は、幅広い平面をなす天冠台上に頭上面の枘穴を配する点が類似し(注9)、双方の不動明王立像(12世紀)は面相部や着衣の衣文の表現、プロポーションがそれぞれ類似する(注10)。三ヶ日地区は、豊橋地区に加え、新城地区とも接し、国境には宇利峠と瓶割峠がある。八名井の延寿庵には、今水寺(廃寺)にあった11世紀の十一面観音立像と地蔵菩薩立像が伝わる〔図12〕。宇利の冨賀寺には、像底の丸枘孔に台座中央に設置した枘を指す立たせ方が室生寺金堂中尊像(9世紀後半)等と類似する十一面観音立像(注11)と、温和な表情と丸い輪郭、省略された衣文の表現が大福寺像と類似する十一面観音立像の2躯が伝わる。また、金剛力士立像、不動明王立像、毘沙門天立像や如来形坐像の破損仏等、12世紀の作例も豊富に伝わる。冨賀寺から程近い黒田の阿弥陀堂には概ね定朝様式に従う阿弥陀如来像(12~13世紀)が、林光寺には銘文に普門寺の僧・永意の名が残る薬師如来坐像が伝わる。林光寺像の結縁交名には遠江国側の氏が多く含まれ(注12)、「当国十二郡」の記述が8郡の三河国でなく当時12郡だった遠江国を示し、銘文の筆者も遠江国の人物である可能性(注13)が指摘されることは注目される。やや北上するが、巣山の熊野神社には、古くは阿弥陀寺(高福寺)にあったと考えられる行慶作の阿弥陀如来坐像(寛元2年〈1244〉)が伝わる。熊野神社像と銘文に類似点があり、熊野神社から地域Dの秋葉寺に移った金剛力士立像(吽形)の銘文には「宇利」の文字が確認できる(注14)。これは冨賀寺のある宇利や熊野神社のある巣山までの広範囲を包括した宇利荘域を表す可能性があり、造像背景に宇利荘との関係や影響が想定される。地域Bの引佐地区は、―17――17―
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