鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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㉕ 谷文晁筆《檜蔭鳴蝉図》(公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)を中心に見る、はじめに重要文化財《夏秋渓流図屛風》(根津美術館蔵)は夏から秋への季節の移ろいを濃密な色彩によって見事に写し取った鈴木其一の代表作である。本作において小さな存在ながら季節の移り変わりを示すモチーフとして注目されるのが、右隻中央の檜にとまる蝉である。この檜と蝉という組み合わせはこれ以前の時代では管見の限り例がないが、同時代では谷文晁筆《檜蔭鳴蝉図》(公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)〔図1〕において描かれている。文晁と其一、同時代を生きた絵師が檜と蝉を描いているのは興味深い問題である。そこで本研究では《檜蔭鳴蝉図》を中心に、蝉とこの時代の檜と蝉を取り巻くイメージについて明らかにしたい。1.文芸に登場する蝉日本において夏から秋にかけて涼やかな音色を響かせる鈴虫、松虫、螽斯などの鳴く虫は和歌や『源氏物語』などの物語において重要な役割を果たしていた。『枕草子』においても、「虫は 鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。はたおり。われから。ひをむし。蛍。」とある(注1)。一方で、蝉は「すさまじもの」の例えとして「験者の、物怪調ずとて、いみじうしたり顔に独鈷や数珠などの持たせ、せみの声しぼり出して誦みゐたれど」とあり(注2)、蝉のような声で読経する修験者を嫌なものの例えとして挙げている。だが、夏に響く蝉の鳴き声は『万葉集』の頃から歌に登場しており「黙あらむ 時も鳴かむ ひぐらしの 物思ふ時に 鳴きつつもとな」という歌が載る(注3)。『古今和歌集』には「明けたてば 蝉のをりはへなきくらし 夜は蛍の燃えこえそわたれ」という歌が載る(注4)。更に時代を経て室町時代以前に成立した御伽草子『玉虫の草子』をもととする『虫妹背物語』では、玉虫姫をめぐって争うひぐらし、きりぎりす、蝉が登場し、蝉が玉虫姫と結ばれる。本作は17世紀頃には住吉如慶《きりぎりす絵巻》(細見美術館蔵)のように絵画化もされている。更に、蛙を判者に合計30匹の虫が左右に分かれて歌合せを行う『虫歌合』にも蝉は登場しており、10番目に蜩と黄金虫が、14番目に蜘蛛と蝉がそれぞれ和歌を詠みその優劣競っている。近世に入ると松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入蝉の声」(注5)という句に代表されるように、蝉は俳諧の世界において夏の季語として度々登場するようになる。蝉と檜の表象について研 究 者:サントリー美術館 学芸員  宮 田 悠 衣―265――265―

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