鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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そしてその改題本『春渓画譜』文政三年(1820)には、漢詩と共に一匹の蝉が蓮の葉にとまる図が収められている。『画本虫撰』のみが例外となるが、それ以外の作例は伝統的な草虫図の系譜をひく作例の中に描かれることが多いようだ。蝉は近世おいてもやまと絵よりも漢画に親和性の高いモチーフであったようである。3.檜について続いて檜についてである。檜は建材として古代より珍重され、江戸時代においては木曽の檜はその伐採が禁じられるなど尾張藩によって厳しく管理されていた(注9)。江戸時代において広く流布した『和漢三才図会』においては中国にも分布し、「檜」と書く針葉樹であるビャクシン、またはイブキを、日本の檜と混合していたようだが、日本の檜は植物学的には日本固有の常緑樹である(注10)。さて、檜が絵画のモチーフとして取り上げた作例として最も著名なものは、狩野永徳による国宝《檜図屛風》天正18年(1590)が挙げられるだろう。この他、例えば俵屋宗達《槙檜図屛風》(石川県立美術館蔵)などのように琳派の絵師たちによって古くから描かれてきた(注11)。4.《檜蔭鳴蝉図》と本作が生み出された時代について《檜蔭鳴蝉図》は画面中央に檜の幹と蝉、そして画面上方には檜の葉を表す。樹の幹は輪郭線を用いず、筆の掠れや、墨の濃淡によって木肌の質感を表している。一方で蝉は、翅の支脈を描き、一部に茶色を用いてその上に墨を重ね、更に、節々に金泥を引くなど、細かい線描でその質感を表そうとした様子が窺われる。画面右下の落款の書体は「文晁」の文の字は烏文晁の書体に近くなるも、晁の書体はまだ天保年間頃には遠く、全体の書風をみるに文化から文政期頃のものと思われる。更にその下に捺される文晁の印は、文晁がしばしば手掛けるやまと絵風の作品に用いられること、そして、本作では、文晁が親しく交流した抱一の図様、描法を意識的に摂取しようとしたことが知られている(注12)。更に、狩野常信《檜に白鷺図》(個人蔵)は酒井抱一門下で図様が共有された可能性がある事、そして、画面に大胆に檜を配する構図が《檜蔭鳴蝉図》と共通していることも指摘されている(注13)。確かに檜の幹の凹凸を墨の濃淡によって表す様子は琳派の技法であるのたらし込みを、また上部の檜の枝の周囲に薄墨を刷く様も抱一の《十二か月花鳥図》(出光美術館蔵)などを思わせる。以上の様に本作の描法、構図は抱一や琳派からの影響を想起させる。しかし、蝉は鈴木其一による《夏秋渓流図屛風》以外に酒井抱一の周辺から見出すことが出来なかっ―267――267―

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