た。《夏秋渓流図屛風》の落款は天保12年(1841)に奉納された《迦陵頻図絵馬》(浅草寺蔵)に近く、恐らく天保年間末頃の制作と思われるため、《檜蔭鳴蝉図》の方が先行すると考えられる。そこで、《檜蔭鳴蝉図》は抱一の画風を積極的に学びつつも、蝉については文晁が中国絵画からの影響を受け、画中に敢えて登場させることで和漢のモチーフが混交した新たな景観を創出させることに成功した可能性を提示したい。江戸時代は本草学、そしてそれに隣接する分野の名物学などの学問が大名、旗本、町人などの様々な階層の人々によって発展した時代である(注14)。明の李時珍が編纂した『本草綱目』(1596年)が伝来し、特に18世紀以降は徳川吉宗の政策の影響もあり、本草学を始めとする学問が飛躍的な発展を遂げた。吉宗は享保20年~元文3年(1735~38)にかけて全国的な動植物の調査を行う「享保元文全国産物調査」などを行い、各地において動植物に対する興味関心が高まるきっかけを作ったのである。この他、洋書の輸入制限を緩和したことで、ヨンストンの『動物図説』など本草学にも大きな影響を与えた洋書が日本にもたらされた。また、考証学も盛んになり、各地の武士や戯作者の間で風俗、事物起源などの真偽を問い直す動きが活発化したという(注15)。そして、近世を通じて流行し、武家から庶民まで親しんだ俳諧、狂歌も自然をみつめる姿勢の進化を促したと思われる。こうした機運を背景に、虫についても優れた博物図譜が多数制作され、更に、北尾重政による俳人の為の図鑑である『俳諧名知折』安永9年(1790)や、狂歌絵本である『画本虫撰』などの文芸とも結びつき、まるで博物図譜の様な絵手本や、絵入狂歌絵本などの版本が生み出された。中国から伝来した草虫図は中世から近世にかけて時の権力者たちに珍重され、狩野派や土佐派など様々な絵師がその図様を真摯に学んでいる。近世に入って以降は本草学を始めとする学問の進展もあり、虫を見つめる視点が進化し、画中に登場する虫はその姿がより精緻に描かれるようになり、また、その数が増える傾向が顕著になった。そして、伝統的な草虫図の中に描かれてきた蟷螂や蜻蛉、蝶、螽斯、蝉などに限らず、芋虫や鈴虫など新たな種類の虫が登場するようになった。例えば、山本梅逸《花卉草虫図》の画面中央辺りの水仙の根本付近には翅をふるわせ鳴かんとする鈴虫が描かれている。司馬江漢《花卉草虫図》(個人蔵)は濃彩によって鶏頭花、鳥兜を表し、江漢が画業の初期に師事した宋紫石の影響を想起させる作品であるが、遠景には淡彩によってのびやかに薄が表され(注16)、更にその下の中には秋草の中に鈴虫が表されている。また、抱一《四季花鳥図巻》文化15年(1818)(東京国立博物館蔵)は上巻に輪郭線を用いて精緻に藤の花に飛ぶ2匹の蜂が描かれているが、一方で下巻は萩の花の下で鳴く鈴虫が描かれており、日本的な導入となっている(注17)。更に、葛飾―268――268―
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