鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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㉖ 初期洋風画発見の状況を検証する─茨木のザビエル像・マリア十五玄義図を中心に─研 究 者:茨木市教育委員会 教育総務部 歴史文化財課 学芸員はじめに大阪府茨木市北部の千提寺、下音羽地区には、かつてキリシタンが存在していた。各家で代々守り伝えてきた「キリシタン遺物」が発見されたのは今から100年ほど前の大正時代である。隠されてきた遺物の中には、教科書でも見かける有名な「聖フランシスコ・ザビエル像」(現在は神戸市立博物館蔵)〔図1〕も含まれている。発見地である茨木市の千提寺・下音羽地区を含む北部地域は、忍頂寺五ヶ庄と呼ばれ、天正6年(1578)からキリシタン大名・高山右近の領地であった時期があった。これをきっかけにキリスト教が同地域に広まったものと考えられている。同地域にキリシタンが存在していたという事実は、大正時代のキリシタン遺物の発見を知らせる新聞報道や研究報告によって世に広く知られた。茨木のキリシタン遺物は現在、所在不明となったものを含めると、約70点確認されている。ここではこのうち聖フランシスコ・ザビエル像、マリア十五玄義図を中心に、作風や図像の系統について検討を加える。特に、遺物を歴史的観点から統括的に捉えつつ、個々の作品の発見、撮影、売却、修復などの辿った歴史を追っていきたい。1 キリシタン遺物発見の経緯と流れ茨木におけるキリシタン遺物発見のきっかけとなったのは、キリシタン墓碑の発見である。このころ京都ではキリシタン墓碑の発見が相次いでおり、世間のキリシタンに関する関心が高まっていた時期であったともいえる。発見者である、地元の忍頂寺小学校教師であった藤波大超(1894-1993)は、千提寺地区の東藤次郎氏に協力を求めた。はじめは強力にこの調査などを拒否していたという東氏はついに、所有の寺山にあるひとつの石を差し示した。これはかつて若衆が力比べに用いていた石であったといわれる。石には慶長8年(1603)の年号と、中央にいわゆる「二支十字」といわれる十字架と、「上野マリヤ」の銘が刻まれていた。この発見ののち、東家のあけずの櫃が開かれることになった。大正9年(1920)9月26日、藤波の熱心な説得により、藤波の兄と仏教史学者でもあり義兄でもある橋川正(1894-1931)が同席する中、東藤次郎氏はあけずの櫃を物置の隅から取り出した(注1)。これはもともと旧宅(明―272――272―桑 野   梓

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