治38年(1905)の火災で焼失)のカマドの屋根裏にくくりつけてあったものだという。あけずの櫃からは、聖フランシスコ・ザビエル像(以下、ザビエル像)やマリア十五玄義図、メダイなどのさまざまな遺物が発見された。発見から5日後、『大阪毎日新聞』で報道され、広く知られることになる。また翌年1月には橋川によって発見の経緯が記された論考が発表される(注2)。橋川は藤波家と親戚関係にあり、藤波は遺物発見に際して逐一橋川に報告をしていたものと思われ、藤波が現地を踏査し、橋川が広く紹介する、というかたちをとっていたと言われている。橋川は、発見の情報を京都帝国大学の新村出に伝え、また新村も濱田耕作(青陵)とともに、発見の翌年である大正10年(1921)4月に東家を訪れ実査している(注3)。その際の成果は大正12年(1923)に『京都帝國大学文学部考古学研究報告』第7冊「吉利支丹遺物の研究」となって刊行された(注4)。本書の中で新村出が著した「摂津高槻在東氏所蔵吉利支丹遺物」(以下、『報告』)では、東家の遺物について詳述されており、また、ここに掲載される写真は発見直後の状態に最も近い写真である。本書に記載される東家の遺物の内容と現在の状況の比較については、後に確認していくことにする。東家のキリシタン遺物の発見を端緒として、東家と縁戚関係のある千提寺地区の他家でも次々と遺物が発見された。また、千提寺地区のみならず北へ2.5kmほどいった下音羽地区でも遺物が発見された。下音羽地区の遺物所有家と千提寺の遺物所有家は縁戚関係がある。これはキリシタンであることが外部に漏れないための対策であったと言われている(注5)。東家以外の遺物は大正11年(1922)に中谷仙之助家、中谷源之助家から、下音羽の大神家からそれぞれ発見された。これらの遺物発見者は奥野慶治(1901-1949)である(注6)。奥野もまた地元の清溪小学校教諭であり、著書『綜合清溪村史』の中で、「大正十一年一月著者は中谷源之助方にて聖母マリア図外四点、中谷繁蔵(仙之助)にてギヤ・ド・ペカドル外十二点、下音羽大神金十郎にて耶蘇磔刑象牙彫像外四点を相次で発見」(( )内は筆者)したと述べている。キリシタン墓碑については発見の端緒となった「上野マリヤ銘墓碑」のほかに、千提寺では大正12年に中谷栄次郎家で2基、下音羽では大正11年夏頃に高雲寺で2基、沓脱石や手水鉢に使われていたものがキリシタン墓碑であったことが判明し、昭和3年には井上家で1基発見されている。昭和5年に発見される下音羽の原田家のマリア十五玄義図(聖母十五玄義・聖体秘―273――273―
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