蹟図)を最後に、茨木における新たなキリシタン遺物発見は現在のところ、ない。以上発見された遺物と発見の流れを表にまとめると、〔表1〕のようになる。キリシタン遺物が次々と発見されると、茨木北部の小さな村には大きな転機が訪れる。大学の研究者、新聞記者、キリスト教関係者などが次々と村を訪れるようになる。先に述べた京都帝国大学の新村出や浜田耕作のほかに、東京帝国大学の姉崎正治も訪れている。キリシタン遺物所有家の中には芳名帳を作り、来訪者の記録を残している家もある。また、大正12年11月に改めて大阪朝日新聞に取り上げられると、大阪川口教会の信者が千提寺を訪れ、オラショを唱える老婆の存在を知る。この信者の情報をもとに、1カ月後の12月2日、主任司祭であったビロー神父が千提寺を訪れた。これ以降、ビロー神父は布教活動を行うために、積極的に現地を訪れるようになる。はじめは警戒をされていたものの、裁縫を教える教室を開くなどして、徐々に村人たちに受け入れられるようになっていく。大正14年には念願かなって千提寺教会を設立した。このように周囲の状況が変化していく中で、発見されたキリシタン遺物そのものも変容を遂げていく。すなわち、修理が行われたり、売却されて茨木を離れたりしたのである。茨木を離れて最も有名になった遺物といえば、現在神戸市立博物館蔵のザビエル像である。本像は、昭和10年(1935)に南蛮美術収集家の池長孟の手にわたり、その後神戸市立博物館所蔵となった。以下では、ザビエル像の保存状態、修理状況をみていくことにする。2 ザビエル像をはじめとする、絵画作例の保存状況先にも述べたように『報告』内には、ザビエル像の最も発見時に近い写真が掲載されている〔図2〕。また、新村の記述によると現在は額装の本図も、当初は「掛物に仕立て」られていたという。さらに、サイズについては「竪二尺六寸八分、横一尺八寸五分」と記されており、センチメートル換算すると81.2cm×56.0cmとなる。現在のいわゆる本紙部分のサイズが61.0cm×48.7cmとなり、『報告』内の寸法は、今は失われた表装の一部の寸法が含まれているようである。『報告』掲載写真をみると、上下と右辺には中廻しのような部分が写っている。寸法からすると、上下は各約10cm、向かって右辺は7cmほどであろうか。一方、「京都大学総合博物館蔵キリシタン関係資料」(注7)の中にある1920年から1930年頃に撮影したとされる同像の写真をみると〔図3〕、詳細は不明であるが、上部をみると周縁部に細いテープ状に裂か何かが巻かれているようである。このときには既に発見時にあった表装は取り外されている―274――274―
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