ようである。『報告』内の表装が遺されたままの写真は、東家所蔵の書簡等によれば発見から2か月ほど経った大正9年(1920)11月に撮影したものかと思われる(注8)。同じく東家所蔵の書簡等によれば、浜田耕作も大正12年(1923)10月に撮影に訪れていることがわかり、もし先の「京都大学総合博物館蔵キリシタン関係資料」中の表装が外され、裂状のものが写っている写真が、浜田来訪時の撮影写真であるとするならば、大正9年(1920)11月から大正12年(1923)10月までの期間に表装が取り外されたものと思われる。今回、東家に東藤次郎氏とザビエル像が写った写真が残されているのを確認した〔図4〕。この写真は、発見時頃に撮影された東藤次郎氏が写った写真と比較しても、それほど時間が経過しているようには見えず、大正時代に撮影したものと思われる。東氏の手には表装が取り外されたザビエル像が握られており、修理を施したあとの記念撮影のようでもある。これがザビエル像にとって1回目の修理であると考えられる。塚原晃氏は、ザビエル像の修理の履歴、画面状況変化の経緯について検討を加える中で、少なくとも4回修理が行われたことを指摘している(注9)。そのうち2回目、3回目、4回目の修理は池長の手に渡って以降、すなわち茨木を離れて以降に修理が行われていることとしている。茨木では修理は1回行われているのみであると考えておられるが、ではその修理は一体いつ、何のために行われたのか、以下で検討を加えたい。いつ、何のために修理が行われたのか、このことについて考えるために、『報告』に記載のある、ザビエル像以外の絵画のキリシタン遺物の状況をみてみたい。『報告』内の遺物は寸法や状態などが変わらないものも多くみられる一方で、支持体が紙の場合は、発見当時から大きく姿を変えていることがわかる。ザビエル像とともにみつかったマリア十五玄義図は、『報告』内の写真では本紙周囲に亀甲文様の描かれた表装が写っている〔図5〕。寸法は「縦二尺七寸、横二尺二寸」とされており、センチメートル換算すると、81.8cm×66.7cmとなることから、現状の寸法81.9cm×66.7cmと変わらない。おそらく当時も本紙の寸法を測ったのであろう。因みに発見当初からマリアの顔部分はなく、近年の調査で漉き返しの黒色の補修紙が貼られていることが明らかとなった。マリア十五玄義図は、現在は亀甲文様の見える表装は取り外され、額装となっており、修理は最低でも2回行われている。直近の2回目の修理は平成22年に実施した。その際の報告写真で修理前の画面を確認すると、周囲には1センチほどの黄土色のテープ状の裂が巻き付いていた〔図6、7〕。現在は取り外されている。次に「天使讃仰図」をみてみたい。「天使讃仰図」は『報告』の中で新村出によっ―275――275―
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