うか。ここでひとつ考えられるのは、先にも述べたように浜田耕作が大正12年(1923)10月に撮影に訪れていることである。これは大正13年に開催されたローマ法王庁主催の「基督教布教記念博覧会」へ写真を出展するための撮影である。これに間に合う形で修理が施された可能性がある。一方同じく「京都大学総合博物館蔵キリシタン関係資料」中の浜田撮影かと思われる下音羽の大神家所蔵の天使讃仰図5枚の写真は、この時点では発見時の傷んだ状態のままであった。しかしながら大正15年3月頃までには、ザビエル像などと類似した修理が加えられているのである。大正15年(1926)3月頃に撮影されたと思われる、『珍書大観吉利支丹叢書』(昭和3年刊行)中の写真では、天使讃仰図は体裁が整えられている。すなわち「婚姻」の左側に「品級」の一部が誤って貼りつけられていることが、同図の現状と一致しているのである。また、大正14年(1925)5月の裕仁皇太子(後の昭和天皇)夫妻の京都帝国大学における台覧に向けて修理が実施された可能性もある。この時、傷んだ状態で台覧に臨むよりも、紙資料は特に体裁を整える必要があると考えられたのであろう。というのも、厨子に入ったロレータ聖母子像やキリスト磔刑像は、発見時から蝶番などが外れるなどしているが、現在まで修理を受けた痕跡はないのである。台覧遺物は、「聖母十五玄義図」「ザビエル画像」「吉利支丹宗門雑録」「聖母半身像」「ドチリイナ・キリシタン」「ロレート精舎の聖母像」「ぎや・ど・ぺかどる」「キリスト磔刑彫像」の8点であったという(注11)。台覧当日には、所有家4家に加えて、清溪村の村長や藤波も列席した。しかし記録によればこの時、大神家で発見された5枚の天使讃仰図は、台覧遺物に入っていない。修理が間に合わなかったのであろうか。周囲を切り取り、裂で周囲を囲む修理の方法が絵画作品のすべてに共通していることは、京都帝国大学や同大学の新村出や浜田耕作の関与が伺われる。しかしながら、修理に関する文書や書類等は所有家などでも現在のところみつかっていない。おわりにかえて以上、昭和5年に発見される下音羽・原田家のマリア十五玄義図(聖母十五玄義・聖体秘蹟図)を除いて、遺物の発見時の様相をみてきた。これを見ると、寸法や状態などが変わらないものも多くみられる一方で、支持体が紙の場合は、発見当時から大きく姿を変えていることがわかる。このことは、大正時代の発見時まで秘匿され、公にならなかったことへの反動にも見える。表に出せず修理を施せなかった生々しさがまさに「潜伏」の歴史を傍証するとの認識が当時はまだなかったため、美術品として―277――277―
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