注⑴兄の藤波大圓は、この時、海外にいた可能性もあり、弟が同席していた可能性もある。因みに多くの人々の目に触れるものとなったとき、体裁を整えることが必要であると考えられたのだろう。遺物の状態が示すのは、なぜ隠し続けることができたのか、その答えのひとつを示している。それは、遺物の一部を除いてそのほとんどが、信仰具として実際に使用されることがなくなり、所有家がキリシタンであることの証である「もの」あるいは開けてはいけない「箱」として代々伝えられ、天井の梁に括りつけたり、屋根裏や蔵に隠したりして、秘匿しているものが具体的に何であるのか、詳細を知るものはほぼいなくなっていた可能性である。そのような中で、狭い地域でお互いに秘密を共有することで、これほど多くの遺物を伝えることができたのではないだろうか。今回の検討によって、遺物ひとつずつの情報を詳しく見ていくと、茨木を離れた遺物も、所有者が異なる遺物も、紙が支持体の遺物については、一度修理が施されていることが明らかとなった。また時期についても東家の遺物は大正12年10月より前、大神家の遺物は大正15年3月までに限定することができた。さらには修理を施すきっかけとして、京都帝国大学におけるローマ法王庁主催の「基督教布教記念博覧会」への写真の出品や、皇太子の台覧など、京都帝国大学との関係性の中で実施された事績の可能性を指摘した。今回の検討を通じて、もうひとつの課題が浮かび上がった。それは、最初の発見地である千提寺に比べて、下音羽の遺物に関しての情報が極端に少ないことである。今後は下音羽地区での遺物発見と信仰についてもより詳しく調べていき、茨木のキリシタン遺物が語る歴史にさらに迫ることができればと考えている。https://peek.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/ark:/62587/ar56785.56785橋川氏は「藤波兄弟」と記している。⑵橋川正「北摂より発見したる切支丹遺物」(『史林』6-1、大正10年(1921)1月)。⑶この時の様子は新村出「濱田青陵博士の追憶」『考古学論叢』8、昭和13年(1938)8月に記されている。⑷新村出「摂津高槻在東氏所蔵吉利支丹遺物」(『京都帝國大学文学部考古学研究報告』第7冊、大正12年(1923)6月。⑸『彩都(国際文化公園都市)周辺地域の歴史・文化総合調査報告書』大阪府文化財調査研究センター、平成11年(1999)3月。⑹奥野慶治『綜合清溪村史』昭和10年(1935)8月。復刻版:昭和63年(1988)12月。⑺京都大学総合博物館蔵キリシタン関係資料 ⑻「史料 東藤次郎関係書簡(東利之家文書)」『新修茨木市史年報』第15号、平成29年(2017)―278――278―
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