鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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《見えて/見えず 知って/知れず》(2000)屋外のギャラリースペースに設置されている《見えて/見えず 知って/知れず》と、地中美術館に所蔵されている《タイム/タイムレス/ノー・タイム》にはどのような考察ができるのかを考えてみたい。本作品は、ベネッセハウスからパーク棟へ向かう途中にある階段下に埋め込まれた長方形の空間に展示されている。花崗岩でできた直径184.2センチの球が二つ置かれ、その両側には、三角柱、四角柱、五角柱がセットになった、金箔張りの木製オブジェが配置されている〔図3~5〕。本作は外部空間に開放されてはいるが、開口部からの光が十分に行き渡らない球の裏側や、空間の両側奥は暗く、全体的に静謐な印象を生み出している。この静謐性は作品の構造とも関係する。というのも、開口部に立つ鑑賞者から見ると、二つの球と、その両脇のオブジェが左右対称となるように配置されているため、この対称性が秩序だった安定性を感じさせるからだ。しかし、この安定性は、実際の知覚経験を通じて、そして、外部の自然によって、複雑化される。本作の設営に携わった秋元雄史は、実際の鑑賞体験について、この内部空間の二つの球体やその両側に置かれたオブジェを一望できる視点はなく、全体像をひとつの視点から把握することができないと言い、この作品をどこから見ればよいのかという疑問が生まれることを指摘している(注9)。作品全体を把握することの困難さが、秩序だった対称性や安定性と矛盾するような効果を生み出しており、デ・マリアが一貫して取り組んでいた知覚と観念との差異への関心が看取できる。さらに、この作品が外部空間に開放されていることも、作品構造がもつ安定性に対するコントラストを生み出している。というのも、この作品が設置されている場所では、鑑賞者は日光、波の音、匂い、風といった周囲環境の様々な情報を同時に感取し、外部世界の複雑さが、作品空間の静謐性と相反するような印象を生み出しているからだ。こうした相反するような印象を考える上で示唆的なのが、タイトルの「見えて/見えず 知って/知れず」という言葉だ。これまでの議論を踏まえると、この言葉を、デ・マリアが言及していた物質の根本的な要素や、「物質は目に見えない粒子で構成されて」おり、肉眼では捉えることはできないが「存在している」といった発言と関連づけたくなる。彼が土や石といった物質や、落雷といった自然現象を作品に取り入れていたことを考えると、この作品は、自然という複雑な外部世界に対して、原子のメタファーともいえる球や数学の順列的規則といった、自然世界を成り立たせる根本的な原理や原則を対峙させるともに、そうした根本的なものさえも実際は把握するこ―287――287―

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