鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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㉘ 写真と絵図による城郭像の検討─カロタイプネガ「鶴丸城内の藩主居館」の日本写真史上の位置づけに関する試論─研 究 者:京都工芸繊維大学大学院 工芸科学研究科 博士後期課程  はじめに日本における最初期の写真実践者として、薩摩藩主の島津斉彬(文化6年-安政5年)を知るひとは多いことだろう。嘉永元年(1848)に移入したダゲレオタイプ(daguerreotype)で写された島津斉彬の肖像は、日本人が同法で作製した写真として唯一現存している。それとともに、カロタイプ(calotype)という技法による非人物写真が存在している。「鶴丸城内の藩主居館」と称される紙に写されたネガの写真で、伝・島津斉彬撮影とみなされてきた〔図1〕(注1)。安政元年(1854)から島津斉彬が亡くなる同5年(1858)頃までの間に、鹿児島城(通称、鶴丸城)の一部を撮影したものと推定されており、日本人がカロタイプで作製した貴重な作例となっている(注2)。ダゲレオタイプの「島津斉彬像」に関しては、すでに多くの研究が蓄積されてきた(注3)。カロタイプの「鶴丸城内の藩主居館」についても、近年、東京大学史料編纂所によって技法が同定され、島津家文書に含まれる翻訳写真技法書との関連性が明らかにされている(注4)。しかし、「鶴丸城内の藩主居館」の撮影目的や来歴等ははっきりとせず、両写真を所蔵する尚古集成館の館長、松尾千歳氏によれば、島津斉彬を撮影者とする伝承があるのみという(注5)。けれどもカロタイプネガの被写体が肖像ではなく城郭という非人物像である点に注意すれば、撮影意図と写真技術の選択に関係があったのではないのかと、推察したくなる。以上の背景をふまえ、本稿では、日本写真史の立場からこれまでの研究成果を整理し、幕末期から確立する城郭写真の特徴を明らかにする。そのうえで、諸特徴から「鶴丸城内の藩主居館」を再び検討し、このカロタイプネガが日本写真史における非人物像を写した写真の出発点であった可能性について言及してみたい。1.「鶴丸城内の藩主居館」「鶴丸城内の藩主居館」の被写体とされる鹿児島城は、慶長6年(1601)に築城が開始され、本丸と二之丸からなった。島津氏の本城で藩主居館としてあったが、明治―294――294―安 藤 千穂子

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