6年(1873)に本丸が炎上し、明治10年(1877)には二之丸も焼失している(注6)。しかし幕末期の建物の配置は、元藩士の成尾常矩(文政2年-明治12年)が作製した絵図等から知ることができる。たとえば、明治6年(1873)3月、本丸が焼失する以前に完成された「鹿児島城本丸殿舎配置図」(尚古集成館蔵、鹿児島市立美術館蔵)や「鹿児島城屋形及び周辺図」(鹿児島市立美術館蔵、個人蔵)などが残り(注7)、明治初年の撮影とみられる鹿児島城内の写真も複数伝わっている(注8)。「鶴丸城内の藩主居館」の具体的な撮影地点の特定は今後の課題となるが、特徴的な構図ではある。被写体の建物は、やや見上げる角度でほぼ正面から写されており、一部が画面に収まりきっておらず、ある程度の近さから撮影されたと推定できる。建物全体を正面から写そうとしたものの、撮影者が不慣れであったために意図せず画面から切れてしまったとするのが、おそらく自然な見方となるだろう。写真の寸法は38.8×28.5cmもあり、そのぶんネガとカメラの扱いには難儀したと予想される。したがって通常は、技術的な稚拙さが原因となり建物が収まりきらず、このような構図になったと判断できるのである。以上をうけてまずは、城郭がいかに描かれてきたのかを振り返りながら、城郭像の捉えられ方を検討していきたい。2.城郭と絵図周知のとおり城郭は、第一に武家にとっての軍事機関であった。城郭の設計や江戸幕府へ報告するために作製された城絵図は、当然ながら最高機密そのものとなる(注9)。目的に応じて城郭から城下町まで描く範囲は拡縮し、地図的、建築設計図的な絵図からパノラマ的視点の景観図まで、描法も変化することになる。19世紀の鹿児島城の絵図といえば、「文政五年鹿児島城絵図」(鹿児島大学附属図書館蔵)や「天保十四年鹿児島城下絵図」(鹿児島市立美術館蔵)、前掲した成尾図など、様々にある。三木靖氏の紹介になる鹿児島城の絵図の変遷をたどると(注10)、城を中心に城下を含めて斜め上方から鳥瞰図的に都市景観を描くものと、真上から見下ろして建物の配置や地形を描くもの、両方を組み合わせたものに大別できる。他方で名所図会においても、城郭は登場する。薩摩藩による名所図会の集大成として知られる『三国名勝図会』(五代秀尭・橋口兼柄等編、天保14年(1843)序)には鹿児島城の挿図がないものの、同巻之一「薩隅日総説」にその歴史等が記されており、鹿児島城が名所として捉えられていたことがわかる(注11)。とりわけ19世紀の鹿児島における名所図会類の挿図として興味深いのは、文政13年と天保元年にあたる1830年頃に薩摩藩士の手によって成立したと推定されている、『薩摩風土記』である―295――295―
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