(注12)。同書「上」の13丁裏から14丁表に、鹿児島城と城山の全容が斜め方向から俯瞰して描かれている〔図2〕。『三国名勝図会』で「山に據て城とす、其山は鶴丸山といふ、此山の形、舞鶴に似たり、故に名を得たり」(注13)と紹介されているように、鹿児島城は背後に広がる城山とともに古くから知られていたため、この点を意識したのだろう。なお、次丁には同じく見開きで真上から城下が描かれている〔図3〕。同書には、周囲を含めて鹿児島城を示した地図的・建築設計図的な絵図と、先にみた景観図的な絵図の両方が、収録されていることになる。『薩摩風土記』にみたように、城郭は名所として、その「イメージ」が広く共有されていた。鹿児島城からは離れるが、名所絵の定型化を論じた大久保純一氏によれば、江戸名所のうち日本橋を題材とする場合、遠景に江戸城と富士山を描く「景観の定型イメージ」が江戸時代後期には形成されていたという(注14)。「定型イメージ」を用いた浮世絵師として大久保氏が言及した歌川広重(寛政9年-安政5年)の『東都名所』より、たとえば「日本橋之白雨」を参照すると、日本橋・江戸城・富士山という定型を確認できる〔図4〕。同氏のいうように、江戸城は富士山とともに画面の奥側に、日本橋の界隈を見守るような高さで描かれている。鑑賞者であった大衆にとって心理的に身近な存在であっただろう日本橋を行き交うひとびとを、覗き見るかのように画面の手前に生き生きと描いているのとは対照的である。画面の奥、上方に全体像で描かれた城郭と霊峰は、あたかも大衆の手には届かない象徴的存在として、画面のなかで機能しているのである。以上より、城郭は、城絵図においては報告や記録を前提として地図的、建築設計図的に、かつ、周囲の地形や都市景観まで含めて描かれ、名所のイメージにおいては、大衆に共有される象徴的存在としてしばしば眺めるような遠さから全体像が描かれたと概観できた。では写真の登場は、城郭像の描かれ方にいかに作用したのだろうか。3.イメージとしての城郭名所として定型化されたイメージと写真との関係は、平成27年(2015)に東京都江戸東京博物館で開かれた「浮世絵から写真へ─視覚の文明開化─」展で、すでに示されている。同展にかかる我妻直美氏の論考によれば、たとえば、先述した日本橋に富士山の組み合わせは明治末期に発行された写真絵葉書にも見出せ、江戸の名所としてあったイメージが、明治期の名所写真帖や写真絵葉書類に至っても参照されていたという(注15)。では、イメージとしての城郭に、写真はいかなる視点をもたらしたのか。欧米にたいして日本のイメージを演出した写真として知られるものに、日本の風俗や―296――296―
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