風景を欧米にむけて輸出した「横浜写真」がある。以下では、その担い手として著名な日下部金兵衛(天保12年-昭和9年)の写真を例に、城郭のイメージと写真との関係性を探ってみたい。日下部金兵衛は、上述のように、今日では「横浜写真」と称される主に欧米に向けられた輸出用・土産用写真に携わった写真師のひとりであった。明治14年(1881)頃までには横浜で写真館を開業して肖像等を写すとともに、数多くの風景や風俗の写真を販売した、横浜写真の代名詞的存在として著名である。当時、輸出用に豪華な蒔絵の表紙をもつ「蒔絵アルバム」がつくられていたが、田井玲子氏が金兵衛の『日本名所風俗写真帳1』とこれに付属するカタログ(ともに神戸市立博物館蔵)によって紹介するには、金兵衛の店では「50枚あるいは100枚を一組として、1冊の蒔絵アルバム」を注文できた(注16)。主な客は来日した欧米人であり、彼らはカタログから任意の写真を記念に選んだ。写真館側は選択された写真を印画紙に焼き増しして、場合によっては美しく着色し、1冊のアルバムに仕立てたのであった。城郭の写真としては、たとえばニューヨーク公共図書館が所蔵する金兵衛の蒔絵アルバム『Japan』(全100図、明治13年(1880)-明治32年(1899))には、寺社仏閣や風景、風俗に混ざって、名古屋城と大阪城の着色写真が1枚ずつ綴じられている。前者は「NAGOYA CASTLE」と題され、下から見上げる角度から、反り立つような威容でもって中央に留められている〔図5〕。もう1枚には「VIEW OF OSAKA, CASTLE.」〔図6〕とある(注17)。「VIEW OF」が付くように、櫓、堀、石垣の美しい連なりと雄大さを感じさせるかのように、引いた地点から奥を眺め渡す視点によって写真がつくられている(注18)。注目しておきたいのは、日下部金兵衛が、イギリス国籍の報道写真家であったフェリーチェ・ベアト(Felice Beato, 1832-1909)に写真を学んだ点となろう。金兵衛は、慶応3年(1867)にはベアトに雇われて彩色の仕事を担い、同年10月頃にはともに上海へも赴いている(注19)。斎藤多喜夫氏やアン・ラコステ(Anne Lacoste)氏によれば、ベアトは、インドや中国での滞在を経て文久3年(1863)には横浜に到着し、来日外国人を主な顧客とする肖像写真の撮影をはじめ、日本の風俗や風景の写真をつくって販売していた(注20)。長崎などの訪問可能な各地に精力的に赴いては写真を撮り、そのうちに解説シートを添えて販売するようになったという(注21)。ベアトは、日本における写真師の嚆矢のひとりとして知られる上野彦馬(天保9年-明治37年)と長崎で関わったことも知られ、日本人の写真師に明らかに影響を与えた外国人のひとりとなる。―297――297―
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