鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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同じくニューヨーク公共図書館が所蔵しているベアトのアルバム、『Views of Japan』(77枚)には、1枚の江戸城の写真が含まれている〔図7〕(注22)。「二の丸蓮池巽三重櫓」を写したというこの写真には、城郭の高さや長大さを強調するかのように奥行を強く出した構図が採用されており、先にあげた日下部金兵衛の大阪城の写真への構図の引き継ぎをうかがえる。このように、欧米の写真家が欧米の客を志向してうみだした「写真の撮り方」が日本人の写真師によって踏襲された点は、上野彦馬とベアトの写真をとおして日本写真史では周知のこととなっている。たとえば、ベアトと彦馬がともに撮影した「中島川と上野彦馬邸」〔図8、9〕における、奥行を意識した画角や被写体の選択にみられる共通性などが、すでに知られている。以上のように、欧米の写真家の視点は日本人の写真師らに共有され、名所の「イメージ」としての城郭に徐々に適用されていったのであった。具体的には、1枚の写真のうちに奥行や高さをもって表すような視点に表れているとみられた。それがのちに国内で流通する写真絵葉書になり、今日の我々でも容易に思い浮かべられる、晴天にそびえたつ凛々しい城郭像に繋がっていったともいえる(注23)。では、もうひとつの城郭の描き方としてあった城絵図は、どのように写真と関わっていったのであろうか。4.城絵図と城郭写真建築物に即した記録性と正確性が必要とされる城絵図と写真を考えるとき、「鶴丸城内の藩主居館」のように城郭の内部まで踏み込んだ幕末期の写真として、二条城と大坂城の写真があげられる(注24)。齋藤洋一氏によれば、ともに撮影者は幕府開成所など幕府内部の関係者であった可能性が高く、前者は慶応2年(1866)から翌年に、後者は慶応元年(1865)から翌年の撮影と推定されている(注25)。複数伝わる二条城の写真は印画紙に焼き付けられており、「城内の主要な建物を丹念に撮影しているとは言え、網羅的、計画的であるとまでは言えず」(注26)、と齋藤氏は分析されているが、この点については後考をまつ必要があるだろう。いっぽう大坂城の写真は、ガラスの湿板ネガ自体をポジにするアンブロタイプ(ambrotype)で残されており、大阪城天守閣に6枚、宮内庁書陵部に49枚と、まとまった数が伝わっている〔図10~12〕。先の齋藤氏は「幕府外部の人間が立ち入ることの出来なかった大坂城の内堀の全周と外堀の半周部分を網羅的に撮影していることが理解される」(注27)と指摘し、志村清氏らは撮影地点を詳細に割り出して、一部が一続きのパノラマ的な写真となる点を明らかにしている(注28)。したがって大坂城の写真は、機能と―298――298―

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