鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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しては記録や報告のための城絵図に近く、平面図である城絵図を立体的に補足する役割も担っていたように考えられる。上述したように大坂城の写真は一点もののガラスの写真であるから、それぞれ木箱に入れられ、各蓋表に被写体が細かく墨書されている〔図13〕。ただし宮内庁書陵部のものは地点ごとに続き番号があるいっぽうで、大阪城天守閣分はいずれも「番外」とされている。このように若干の違いはあるものの、両者の共通点は多い。箱のつくりや写真をとめる木枠の角の形状・処理が同じであり(注29)、「太鼓櫓」〔図14〕や「本丸東側諸櫓」のように、ほぼ一致する図像も2点ある。そのため、ひとつのプロジェクトとして撮られた写真群であり、元は一所にあったとみられる。大阪城天守閣分が「番外」である理由は不明だが、たとえば「人面石」〔図15〕については、宮内庁書陵部分のうち「櫻御門ヨリ右ノ方第十四」〔図16〕の箱書に、「但此御石垣中ニ人面石有之」とわざわざ注記している点に注目できる。次の「櫻御門ヨリ右之方第十五」でも櫓を引きで写した構図が続くことを考慮すると、「第十五」に至る構図の整合性上、「第十四」では小さくしか写せなかった「人面石」をあえてクローズ・アップして残したものの、体系の下では浮くために番外としたように推察される。あるいは、図像の重複から番外とした写真もあるだろう。写真では、「大坂城」という大きな対象を絵図のように一つの画面には収められない。しかし、撮影地点を定めて網羅的に撮影すれば、総体としては体系だった記録となる。だからこそ、体系下で重複する写真は「番外」となるのである。ただし大坂城の写真の一部に見出される連続的な図像が、果たしてフェリーチェ・ベアトら欧米の写真家が作製した、水平方向に広がるようなパノラマ写真としてみられていたかどうかは、不明である。ガラス特有の物質的な個別性はもとより、大坂城の写真のなかには、眺望図など独立した視点のものも含まれているためだ〔図17〕。したがって、平面図である城絵図がまず前提としてあり、その一地点一地点を立体的に描出するために作製された、つまりあくまで城絵図と対でみられるものとしてあった可能性が、大坂城の写真には見出せる。城絵図と写真を対とする作例はある。蜷川式胤の企画により作製された「旧江戸城写真帖」(明治4年(1871)、横山松三郎撮影、高橋由一彩色、東京国立博物館蔵)がそれであり〔図18〕、64枚の彩色写真とともに、「東京城図」〔図19〕「東京之図」の2図が綴じられている。写真の一部はパノラマ的に繋がることが明らかにされているが(注30)、そもそも「旧江戸城写真帖」は洋装本のアルバムであり、基本的には1枚1枚の写真を区切ってみせる体裁である。だからこそ、各写真の位置を城郭の構造や都市という全体のなかで確認するために、2枚の城絵図がともに綴じられる必要性が―299――299―

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