鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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あったように推察される。他方でフェリーチェ・ベアトらが撮った、都市や自然の景観を隅々まで見通すパノラマ写真は、先のラコステ氏によれば西洋のパノラマ絵画を源泉としており、写真をつくりあげるためには高度な技術を要したという(注31)。印画紙に焼いた後に一続きに貼り合わせて眺望を完成させるパノラマ写真では、少しずつ視点をずらしながら図像が連続するようにネガを作製しなければならないのである〔図20〕。そのぶん、可変性が高く、張り合わすこともできる紙との親近性は高かったといえる。ただし日本では、写真を好んだことで知られる尾張藩主の徳川慶勝(文政7年-明治16年)によって、名古屋城をはじめ城下等をアンブロタイプでも紙焼きでも作製したパノラマ写真も残されている。アンブロタイプのステレオ写真でも城郭を撮影しており、元治元年(1864)の広島城の写真等が伝わっている〔図21〕。慶勝の興味は、明らかに新奇な写真の視点に向けられていたのであり、その認識の一端は、上掲した広島城のステレオ写真の裏面に留められている「真景」という言葉に示されているかもしれない〔図22〕。顕微鏡観察にもとづく昆虫の写生図と、昆虫の実物の標本を収録した慶勝の手になる画帖には、「群蟲真景」という題箋も貼付されている(注32)。慶勝は、カメラをはじめとする光学機器をとおして精彩にみつめた非人物像にたいして「真景」という旧来の言葉を用いたとみられるが、この点については今後の考察課題としておきたい。おわりに─城郭写真の特徴からみた「鶴丸場内の藩主居館」─以上、大まかではあるが、城郭の絵図を概観し、イメージとしての城郭写真を確認したうえで、記録や報告としての城郭写真の意図や特徴をたどった。そのうえで、改めて「鶴丸城内の藩主居館」を考えてみたい。前述のとおり「鶴丸城内の藩主居館」の特徴として、被写体である城郭の一部が画面から切れてしまっている点があった。一つの要因としての技術的問題についてはすでに言及したが、大坂城の写真を考慮すれば、このネガは1枚で完結するのではなく、むしろ複数のうちの1枚であった可能性が高まる。実際、同じくカロタイプらしき鹿児島城のネガが、現存するかどうかは不明なものの島津斉彬の撮影写真として、大正14年(1925)の『アサヒグラフ臨時増刊 写真百年祭記念号』(東京朝日新聞社)に掲載されている(注33)〔図23〕。したがって、平面図である城絵図にたいして、体系的に立体性を加えようとする意図のもとで、「鶴丸城内の藩主居館」が撮影された可能性はあるだろう。―300――300―

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