鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴伝・島津斉彬撮影のカロタイプネガには、出版物や展覧会等によって異なる名称が付されている。本稿は、2017年に東京都写真美術館で開かれた「夜明けまえ 知られざる日本写真開拓史 総集編」展における、名称や撮影年等に則っている。東京都写真美術館編『知られざる日本写真開拓史』山川出版社,2017年,30頁。⑵日本人のカロタイプの作例として、他に徳川慶勝が作製した〔写真帖〕(徳川林政史研究所蔵)があるが、島津斉彬と徳川慶勝による写真のほかには現存していないようである。徳川慶勝のカロタイプは次の論考で紹介されている。岩下哲典「徳川慶勝の写真研究と撮影写真(上)」『徳川林政史研究所研究紀要』第25号,徳川黎明会,1991年,223-285頁。⑶たとえば初期の論考として以下があげられる。鹿島晃久「島津家の古写真 最古写真発見の経緯」『一億人の昭和史13昭和の原点明治中』毎日新聞社,1977年,145-146頁。小沢健志「日本の銀板写真 島津斉彬写真の発見について」『季刊映像』第10号,日本映像学会,1978年,32-41頁。⑷吉田成「島津家文書『感光紙製法』について(一)」『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』第28号,東京大学史料編纂所,2005年,5-8頁。谷昭佳「島津家文書『感光紙製法』について(二)─薩摩藩と紙焼写真─」同上,9-11頁。谷昭佳「初期紙焼写真の系譜その一─薩摩藩の写真術研究─」『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』第49号,東京大学史料編纂所,2010年,9-13頁。谷昭佳「幕末期の写真史点描」東京都写真美術館編『知られざる日本写真開拓史』山川出版社,2017年,201-208頁。⑸2023年3月に拝受した松尾千歳氏からの私信において、ご教示を賜った。⑹鹿児島県歴史資料センター黎明館編『薩摩七十七万石─鹿児島城と外城─』鹿児島県歴史資料他方で興味深いことに、欧米の写真の専門家であるハリー・ランサム・センターのキュレーター、ジェシカ・S. マクドナルド(Jessica S. McDonald)氏に「鶴丸城内の藩主居館」をみせたところ、パノラマ写真の1枚ではないか、という感想がすぐに返された。島津斉彬が欧米のパノラマ写真をみていたかどうかは不明だが、同氏が抱いた感想の源泉にあるとみられる、ベアトらによってもたらされた一望する写真の視点は、「鶴丸城内の藩主居館」と同じく城郭内部を写した大坂城の写真にも、部分的に存在していた。さらに、カロタイプの支持体である紙がパノラマ写真と親近性を持つ点や、時代は若干くだるが欧米の写真からの影響を考慮すれば、島津斉彬が非人物像を撮る写真としてカロタイプを用いたと考えうるだけの示唆を、同氏の指摘は与えてくれる。以上より本稿では、「鶴丸城内の藩主居館」を、その後の日本写真史における非人物写真の出発点として位置づけたい。またその目的は、体系だった記録としての大坂城の写真に近かったと考えられよう。ただし、本稿はあくまで見取図的な試論であり、今後、細部の実証度の高い検証と考証が求められていることを付記しておきたい。―301――301―

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