鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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センター黎明館,1991年,37頁。⑺五味克夫「鹿児島城の沿革─関係史料の紹介─」『鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(26) 鹿児島(鶴丸)城本丸跡』鹿児島県教育委員会,1983年,1-14頁。三木靖「史料紹介;成尾常矩「鹿児島城屋形及び周辺図」」『鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告』第13集,2016年,35-41頁。⑻五味克夫、同上、13頁。⑼千葉県立関宿城博物館編『平成8年度企画展 描かれた世喜宿城~城絵図の世界~』千葉県社会教育施設管理財団,1997年,8頁。⑽三木靖「古絵図等に見える鹿児島城」『鹿児島国際大学ミュージアム調査研究報告』第15集,2018年,31-50頁。⑾本稿では明治38年(1905)に出された写本(国立国会図書館蔵)を参照した。⑿本稿では、国立国会図書館が所蔵する天保5年(1834)の写本を参照した。読解にあたり、高橋駿雄『現代文訳 薩摩風土記 近世薩摩、琉球の風物誌及び長崎の交易史』大船庵,2020年,http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/satufudokipdf.pdfを参考にした。⒀『三国名勝図会』,山本盛秀,1905年,21丁裏。⒁大久保純一『広重と浮世絵風景画』東京大学出版会,2007年。景観の定型イメージについては、第3章「広重に見る江戸名所絵の定型」を主に参照した。引用は154頁よりおこなった。⒂我妻直美「浮世絵と写真」岡塚章子・我妻直美編著『浮世絵から写真へ─視覚の文明開化─』青幻舎,2015年,162-167頁。⒃田井玲子「横浜の写真師・日下部金兵衛と神戸風景1」『神戸市立博物館研究紀要』第25号,神戸市立博物館,2009年,80-108頁。引用は102頁よりおこなった。⒄なお「VIEW OF OSAKA, CATLE.」には「1227」という数字が写っている。これは、田井論文で紹介されているカタログ中の「1227. View of Osaka Castle.」に一致すると見なせる。⒅なお、日下部金兵衛のカタログを点検する限りでは、「View」はしばしば用いられているものの、「Landscape」は一度もタイトルに冠されていない。日本における「風景」概念の導入を含め、この点に関する検討は今後の課題としたい。⒆田井玲子「横浜の写真師・日下部金兵衛と神戸風景2」『神戸市立博物館研究紀要』第26号,神戸市立博物館,2010年,74-90頁。88頁を参照。⒇斎藤多喜夫『幕末明治 横浜写真館物語』吉川弘文館,2004年より「フェリーチェ・ベアト」の章、斎藤多喜夫「横浜写真小史再論」横浜開港資料館編『F. ベアト写真集2─外国人カメラマンが撮った幕末日本』明石書店,2006年,94-135頁。および、Anne Lacoste, Felice Beato: A Photographer on the Eastern Road, Los Angeles : J. Paul Getty Museum, 2010. アン・ラコステ監修・東京都写真美術館編・横山文子訳『フェリーチェ・ベアトの東洋』[日本語版]東京都写真美術館,2012年。斎藤多喜夫,前掲書(2004年),82-83頁。アン・ラコステ,前掲書,13-15頁。以下、本稿では、ニューヨーク公共図書館に所蔵されているものを参照した。ベアトらの写真は、日本で醸成された名所イメージとは異なる欧米の写真であったわけだが、我妻氏が写真に、大久保氏が絵画において指摘しているように、醸成されていた名所イメージが明治維新後も強く存続していた点にも、注意する必要はあるだろう。我妻直美,前掲論文,164-165頁。大久保純一,前掲書,156頁。本稿では次の図録の凡例にならい、明治維新の焼失以前を「大坂城」、以後を「大阪城」と表―302――302―

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