た機会に使用された。贈答儀礼が肥大化し、日常的な贈与により経済活動が成り立っていた中世社会(注2)では、人の間を行き交うモノの正当な価値付けは社会の基盤を形成していたとも言える。権威ある鑑定者による代付はモノの価値に対する保証であり、付加価値を付与する点で高い需要の見込まれる活動であった。また16~17世紀には南蛮貿易を通じて日本に流入する唐物の種類が増大する一方、価値の高い古渡の名品は枯渇した状態にあり、たとえ破損した道具であっても補修により新しい価値を生み出すことができた。これに伴って多彩な唐物の技法・構造を深く理解し、表面を繕う技術が飛躍的に向上したと見られる。寛永十三年(1636)六月二十六日付の肥後熊本藩主・細川忠利(1586~1641)から小田豊斎に宛てた書状(注3)は、そうした状況を窺わせる内容である。細川忠利は、草津で見たという茶入を入手すべきか迷い、これを塗師の藤重藤元に見せた。藤重は職人であるとともに、当時よく知られた「目聞」であったためである。藤重の見立ては、土も釉も古さもよいが、底を継いでいる、というものであった。同書状の内容は、当時唐物茶入をはじめとする陶器の修復が広く行われ、しかも一見してわからないような繕いの技術が確立していたことも伝えている。多彩な技法に対応して同様の見た目を得る技術の確立は、模造品の登場を促す条件の一つである。古渡・新渡の唐物に加え、繕い・改変の有無、より精巧に見た目を似せる和製唐物漆器が乱立する状況で、近世における鑑定事業の需要は高まりを見せる。そのような中で、先に見た藤重藤元のように目聞として信用を得て鑑定を行った塗師が現れてきたわけである。では彫漆に関する鑑定には誰が権威を付与することになったのか。江戸時代を通じて鑑定書を発行し、家業として彫漆作品の正当性を保証する仕事を行ったのが、堆朱楊成家であった。堆朱家の地位確立にいたる過程には、寛文頃の盛んな活動が大きく影響したものと考えられる。このことを伝える重要な資料が、「芝山宣豊書状」(東京国立博物館蔵)(注4)〔図1〕である。これは昭和16年(1941)刊行の『堆朱楊成』(昭和美術百家選第40編、美術日報社)に室町時代における堆朱家の製作活動を示す一次史料として掲載され、以後この理解は昭和までの研究状況をまとめた『国史大辞典』第九巻「堆朱楊成」の項(注5)まで引き継がれることになる。しかし、現在はこの書状を室町時代のものと認めることはできない。内容を詳しく見ておこう。朱黒香箱二ツ、楊成細工備 叡覧候、見事ニ被―308――308―
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