鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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思召候、可致献上之旨、披露申候処ニ御機嫌之御事御座候、従其方、被相心得可被申達候、為其如此候、恐々謹言  二月十一日      宣豊          芝山中納言(捻封墨引) 鹿苑寺殿  宣豊堆朱楊成の作になる朱と黒の香箱二点を叡覧に供したところ見事に思召され、献上することとなった。その旨を鹿苑寺殿の方から伝えてほしい、と芝山中納言が希望している内容である。芝山中納言とは江戸時代前期の公卿、芝山宣豊(1612~90)であるから、鹿苑寺殿とは鳳林承章(1593~1668)を指している。鳳林承章の日記『隔蓂記』寛文四年(1664)二月十一日の条(注6)には、この間の事情がより詳しく記されており、本書状の内容を裏付けている。十一日、(前略)內々柴田量宣被申、堆朱香合之細工仕楊成、堆朱ノグリゝゝ之香合壹ヶ・黒塗唐物御香合壹ヶ、已上兩ヶ奉備 叡覧、即獻上仕度之旨、申、今日奉獻上也。特外見事之細工被驚 叡慮之旨也。芝山黃門之狀取、此(柴)量所江遣也。(後略)寛文四年当時に在位していたのは霊元天皇(1654~1732)であるが、この時点でわずか11歳のため、「叡覧」に供した相手は後西上皇(1638~85)と考えられる。見せた作品は堆朱楊成の細工になる堆朱屈輪文香合と黒塗唐物香合であったとのことで、殊のほか見事の細工に驚かれたという。「芝山黃門之狀」が先の芝山宣豊書状と考えられ、鳳林承章はこれを受け取ってすぐ、両香合を献上する意向を持って準備していた柴田良宣にその旨を伝えたらしく、両香合はその日のうちに献上されている。もう少し、『隔蓂記』から堆朱楊成の動きを見てみよう。後西上皇に香合が献上されてまもなく、同年二月十七日のことである。十七日、柴田量宣爲案内者、叡山之寂光院與堆朱楊成兩人初而被來也。扇子三本入箱寂光院被惠也。楊成者細工之筆軸一本恵也。雖然、細工之物受、則今度 法―309――309―

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