ゟ廿術館香合よりもかなり低いところにあることがわかる〔図8〕。漆層の断面を見ると黒漆層があることはわかるが、文様の彫刻にはほとんど干渉しない位置である。このあたりの事情が、摸作の際には理解しにくかったのかもしれない。根津美術館香合の本歌については、他にも有力な候補がある。大正13年(1924)10月に行われた田安徳川家の売立目録『德川家御藏器入札』(東美倶楽部)には、本作と全く同意匠の堆朱香合が掲載されており(注12)、箱書によれば「蘭之御香箱/張成造」とされている〔図9〕。同箱には加えて「享保十六亥歳九月 三日/田安江御移徒 /有徳院様 御拝領」(注13)と読める墨書があり、同香合の由来を伝えている。図版からは日付など判読しにくい部分もあるが、『有徳院殿御実紀』巻34、享保十六年九月廿三日条には「右衞門督宗武卿田安の邸に移徒あり。」との記述が見られ、享保十六年(1731)9月23日に徳川宗武(1716~71)が田安家を創立して移徒するにあたり、父・徳川吉宗(1684~51)から拝領したものと判明する。もしこの宝物の移動が模造制作の契機となったのなら、やはり享保十六年当時の『武鑑』に唯一「御堆朱師」として名前が載る堆朱楊成が細工にあたったものと考えるのが自然であろう。御用堆朱師とは言え、柳営御物を実見する機会が豊富にあったとは思われず、立体的に入り組んだ複雑な文様構成を漆層の構造とともに記憶し、簡単なメモを頼りに摸作せざるを得なかったことが推察される。各文様の高さを正確に把握しきれない状況での摸作と考えると、黒漆層の位置の違いは十分にあり得る誤認である。こうした制作状況に対する推測を抜きにしても、中国製品と異なる特徴を有し、すぐれた技量と良質の素材が見られる根津美術館香合は、江戸時代の和製彫漆の中でも堆朱楊成家が製作に関わった可能性が高い作例と考えられる。之節室町時代の和製彫漆和製唐物漆器の研究は、近年では明時代の在銘品を軸として和製彫漆の特徴を導くことを試みた川畑憲子氏の研究(注14)や、CTを活用して数多くの素地構造データを蓄積し、巻胎を主体とする中国漆器の特徴を示した小池富雄氏らによる研究(注15)、また住谷晃一郎氏の総合的な玉楮象谷研究(注16)を参照しつつ、偕楽園塗を中心に江戸時代末期の和製彫漆について記述した小林祐子氏の研究(注17)などが挙げられる。しかし明確に室町時代にさかのぼる和製彫漆の存在を指摘する論考はなく、現在のところ近世以前の状況はほぼ不明のままである。三条西実隆(1455~1537)の日記『実隆公記』に「堆紅盆鎌倉物」という記載(注18)があり、この「堆紅」が『君台―312――312―
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