鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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観左右帳記』に説明される堆紅(注19)であれば「鎌倉でつくられた彫漆」と解釈することもできる。しかし古川元也氏によれば、当該記事は長亨元年(1487)八月小朔日の条にあたり、禁裏への八朔の贈答品としての側面から見るとこの記述を彫漆と読むことは不自然という(注20)。三条西家は例年、八朔の贈答品に価値として同程度のものを選んでおり、「鎌倉物」がない場合は犬箱や硯、墨、短冊などが贈られていた。高価な漆を長期間かけて塗り重ね、彫刻する彫漆は高級品に属するため、贈答品に組み込むと他の品々との均衡が取れなくなる。すると「堆紅盆鎌倉物」とは彫木漆塗など疑似彫漆によるもので、実隆は深彫りの唐物風漆器程度の意味で「堆紅」の名を使用したのかもしれない。室町時代の和製彫漆と疑われる資料として、日本の年号を記した屈輪文彫漆合子がある。「石名取玉」収納箱(東京国立博物館蔵 法隆寺献納宝物)〔図10〕である。「石名取玉」は明治十一年(1878)に皇室に献納された「法隆寺献納宝物」の一つで、一辺1.6cmの水晶製立方体16個からなる一組を指す。現在は径10.3cm、高3.65cmの屈輪文彫漆合子に収められ、内部では金箔貼薄板に固定された状態で伝わっている。この屈輪文彫漆合子は身の底部に針描銘があり、判読困難な箇所もあるが、おおよそ「永正二年乙丑/七月二日/清真」と読める〔図11〕。『法隆寺献納宝物特別調査概報』(注21)では本作について産地に明言せず、「貴重な在銘の屈輪作品」としている。日本の年号を入れる彫漆という点できわめて珍しいが、造形的にも中国製としては違和感を覚える面がある。本作が和製唐物であれば現存する和製彫漆として最古の作例となるが、では造形面から中国製でないことが指摘できるだろうか。塗漆は木胎に下地を施して黄、黒、朱、黒、黄、黒、朱、黒と色漆を八層塗り重ね、蓋表から蓋蔓、身側面にかけて陰刻で唐草風屈輪文を彫り込む。屈輪文を構成する彫線は断面がV字に近く、最深部にわずかに細い黄漆層を認めることができる。本作のように蓋表に蔓が三方に分かれ、それぞれ二個ずつ渦巻を持つ屈輪文の意匠は、元~明時代に比定される彫漆合子に類例を認めることができる。たとえば「堆黒屈輪文合子」(根津美術館蔵)や「堆朱屈輪文合子」(東京藝術大学蔵)などが挙げられるだろう。比較してみると、類例の屈輪文は蓋表の曲面にかかって立体的に展開するが、本作は主要な屈輪文が甲面の範囲で完結している。この平面的な印象が先述の違和感の正体の一つである。倣製品は一般に意匠が平板化する傾向があり、唐物彫漆を模して日本で作られた彫木漆塗にも同様の傾向が窺えるからである。今回新たにCTによる撮影を行い、素地構造についてより詳しい知見を得た(注22)。箱の構造としては木胎漆塗の印籠蓋造である。底板および蓋天板は柾目板三枚―313――313―

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