鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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を接いで円形に切り出し、側面は曲げ輪造りとする。身は外輪、高台、中輪、内輪の四つの曲げ輪から構成されており、蓋蔓は一重巻きで、蓋天板に廻らせる形で接着している。興味深いことに、底板および天板には、木目に対して斜めに入れられた「切り込み」と思われる痕を確認することができる〔図12〕。理由としては板の反り防止が考えられ、中国漆器に用いられる柾目板にはしばしば見られる施工である。宋~明時代におよぶ長期間にわたり行われたようで、伝統的な工法として定着していたことが窺える。このことは、製作地の同定に関して大きな判断材料となるものと考える。同様の施工は他の中国漆器でも報告されているが(注23)、日本製漆器には今のところ全く見ることができない。すると本作は銘文が示す永正二年(1505)を下限とする明時代の彫漆である可能性が高い。平坦な文様表現は、14~15世紀に比定される類例よりもやや降る15世紀後半頃の特徴と考えるべきだろう。以上長々と述べてきたが、本項では室町時代にさかのぼり、かつ木彫漆塗や堆起漆塗ではなく彫漆で、様式的に倣製品と疑われる一例について検証した。結果として文献上も、現存作例上も、中世の和製彫漆は見いだすことができなかった。もちろん在銘品など伝来情報の確かな作例に限ることであり、現在「唐物」として認定されている作品のなかにも日本で製作されたものが含まれる可能性は残されている。これに関しては引き続き調査を継続したい。摸古作と倣唐物明時代後期にあたる万暦期(1573~1620)は、国力の衰退とともに崩壊へと進みつつある時代であった。一方で好景気に伴って急速に財力を伸ばした富裕商人をはじめ、様々な階層が骨董市場に参入し、古美術に空前の熱気が注がれたことも万暦期の特徴である。とくに流行の中心地であった蘇州は甚だしく、文人たちは古物の模造を糊口の手段とさえしていたという(注24)。こうした摸古作は江戸時代に入り日本へもたらされ、鑑識の問題をより複雑なものとしたことが予想されるが、同じころから日本でも古作の模造が目立つようになってくる。江戸時代・17世紀の作と比定される「文殊菩薩善財童子図料紙箱」(注25)(大英博物館蔵)〔図13〕は、そうした例の一つである。印籠蓋造の長方箱で、隅丸、塵居、甲盛をそなえた伝統的な形態を呈し、総体赤みがかった漆塗に荒い金粉を散らす平塵地とする。蓋表には蓮弁が散る中に、中央に剣を持つ文殊菩薩が蓮台に半跏し、脇侍―314――314―

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