と善財童子が配される。背景を省略し、蓮弁が散る空間に主要モチーフのみを配する点など、平安時代末期の紺紙金字経見返絵に通じる構図である。漆工技法から見ると、尊像なども荒めの紛を用いて金銀研出蒔絵のみで線描き、内蒔きを施し、随所に蒔暈しも見られる。こうした特徴は、明らかに平安時代の漆工品を範として模したものである。水滴型の蓮弁に金銀蒔暈しを施し、中央に一本筋を入れる表現や、箱内側に散る蓮弁の一部を三枚一組に配する点、身の口縁を玉縁として立ち上がりを設ける構造など、たとえば「倶利伽羅龍蒔絵経箱」(奈良・当麻寺奧院蔵)(注26)のような12世紀の蒔絵経箱の造形と細部にいたるまで共通点が多い。所蔵館における名称は「料紙箱」であるが、寸法、形状、意匠から見ると本来は経箱として用いられたと見られる。原品の存在は知られていないが、少なくとも江戸時代までは伝世した平安時代の蒔絵経箱があり、何らかの理由で摸作する必要が生じたものであろう。現状は一段だが、原品は類例のように複数段の身を有していたのではなかろうか。平安時代の作品を江戸時代に模造した例としては、他にも法隆寺献納宝物の「片輪車蒔絵手箱」(東京国立博物館蔵)などがあり、また中世の手箱の内容品であった白粉箱や歯黒箱なども江戸時代に中世の様式を真似て新しく生産された可能性が指摘されている(注27)。法隆寺献納宝物「片輪車蒔絵手箱」は著名な国宝「片輪車蒔絵手箱」(東京国立博物館蔵)が法隆寺旧蔵の伝称があることから製作が企図されたものと考えられ、一方で白粉箱などが模造される背景には茶の湯で香合として転用される例が増えたために古作が払底したことが背景として挙げられる。それぞれ模造の背景となる契機は一様ではないが、模造にいたる前提には対象の価値が確立しており、模造に需要があることに加え、技術に対する関心と理解の深まりが生じていなければならない。先に細川忠利の書状に見たとおり(注28)、修理に関しては17世紀にはきわめて高いレベルに達していた。摸古作と倣唐物の出現は、いずれも近世に至って成熟した技術が存在したことが基盤にある。数百年前の古物も外国製品も異界の造形であることに変わりなく、そこに対する関心が、技術の力を得て形を成したのが摸古作と倣唐物であった。その舞台が、17世紀初頭という東アジアの秩序に大きな変化が起きた時期であったことは興味深い。結語平安時代以降に浸透した中国風荘厳形式や仏教儀礼の増大、唐物を飾る室礼の流行など、唐物ありきで運営される慣例は、その枯渇状態を導いた。希少性に伴う価値の―315――315―
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