注⑴羽田聡「中世史料研究と唐物」『東アジアをめぐる金属工芸─中世・国際交流の新視点』(アジ 上昇に加え、鎌倉時代から流行した八朔の贈答儀礼が和製唐物の受け皿になった可能性も指摘されている(注29)。慣例として唐物風の造形が求められる場合は、製作者側も完全な模造品を作ろうという意図がない。手持ちの技法で見た目を似せる方法をとるのが合理的な判断である。いわゆる「鎌倉彫」の多くはこうした事情から生まれたものと考えられる。彫漆の技法を根本的に再現しようとする発想は、堆朱楊成をはじめとする職人たちによって17世紀前半に醸成された。同じころ古物を模倣する活動も中国・日本双方で盛んとなっており、古物や異国の文物に対する技法レベルの関心の高まりを、発達した漆芸技法が裏打ちする形となった。和物・唐物をめぐる鑑識の複雑さはより混迷を極めるが、これに一定の基準を与える役割を、寛文(1661~73)頃に自家のブランド化に奔走した堆朱家が担うこととなった。堆朱家の鑑定については未調査の鑑定書も多い。今後はより多くの作品と照らし合わせつつ、鑑定の背景とともにその意義を考察する必要があるだろう。ア遊学134)、勉誠出版、2010/7。⑵桜井英治『交換・権力・文化』みすず書房、2019/7。⑶「閏六月七日付内記宛越中守書状」『大日本近世史料細川家史料二〇』東京大学史料編纂所、2006年。大橋俊雄「元和・寛永期の藤重─東北大学附属図書館所蔵『秋田家史料』を中心に─」『漆工史』40、漆工史学会、2018/3。⑷東京国立博物館では1986年に堆朱家から寄贈を受け、江戸時代・17世紀の筆として公開している。⑸『国史大辞典』国史大辞典編集委員会、吉川弘文館、1988/9。⑹『隔蓂記』第五、鹿苑寺、1964/9。⑺「四日、晴天。追(堆)朱楊成來、扇子二本入惠、相對、吸物、浮杯也。法橋大望之事申也。」『隔蓂記』第六、鹿苑寺、1967/7。⑻堆朱家の鑑定については、本格的な検討が小池富雄「堆朱楊成による唐物漆器の鑑定」(『金鯱叢書』26、徳川黎明会、1999/8)において始められ、貞享三年(1686)から享保二年(1717)にいたる期間に発行された鑑定書5種7通が紹介された。次いで田淵可菜(「香雪美術館所蔵品に付属する堆朱楊成の鑑定書」『中国の漆器』図録、公益財団法人香雪美術館、2021/12)はこれに加え、香雪美術館所蔵の3種5通および売立目録の調査等を通じて明らかとなった鑑定書を含め計19通23種の確認が報告された。⑼小林祐子「和物彫漆の基礎的研究─堆朱楊成・玉楮象谷・偕楽園塗を中心に」科学研究費助成事業研究成果報告書、2016/6。https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-25370147/25370147seika.pdf―316――316―
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