日記によれば、本作は晴川院の祖父・養川院惟信病没の折も同様の手続きを取っていたとあることから、少なくとも養川院・伊川院・晴川院の3世代にわたる御用であったとわかる。また、絵様の決定は依頼主である将軍家奥向とたびたび面談を繰り返し、直接やり取りをしていた(注5)。金子拓氏によれば、この後も木挽町狩野家と幕府との間で東博下絵やその模本類の貸与と返却が繰り返され、天保12年(1841)閏1月22日に12代将軍家慶から制作続行が命じられ狩野家へ貸与されたのが日記にみる最後という(注6)。ところが、現在の東博下絵は大下絵の段階まで仕上げられており、侍大将以上の武将などに着色も施されている。後年の記録では、「鍬形蕙林 名ハ勝永 勝川門下ナリ 明治十三年頃永悳博物館ノ命ヲ受ケ 伊川院遺稿長篠長久手合戦屏風ヲ補成ノ際蕙林ヲシテ工ヲ助ケシム」とあり、寄贈以前の明治13年頃、帝室博物館の依頼で晴川院の弟・永悳が、鍬形蕙林らとともに加筆したと伝える(注7)。前年に勝川院雅信が病没していることから、叔父である永悳が成り代わり指揮に当たったとみられ、東博下絵は晴川院以降も手が加えられていると思われる。もうひとつ注目すべきは、謙柄寄贈の模本がいずれも合戦図であるという点である。日記に従えば、貸与された模本類は、天保12年以降狩野家に保管されたとみられる。これを踏まえると、その後迎える幕府瓦解によって返却先を失った模本類は、謙柄が画業を継がなかったこともあり帝室博物館への寄贈に至った、と考えるのが妥当ではなかろうか。すなわち、謙柄が寄贈した模本の中に日記にみる合戦図の模本が含まれると推察する。二 東博下絵の概要─テキストの選択と造形化では、長篠図からみていこう。長篠合戦は、天正3年(1575)に三河国(現在の愛知県新城市付近)の長篠・設楽原において、徳川領内に侵攻してきた武田勝頼軍を徳川家康・織田信長の連合軍が迎え撃ったいくさである。連合軍は、鉄砲を巧みに使い、武田の騎馬武者を圧倒したといわれる。西に向け侵攻していた武田勝頼軍は、徳川家康の本拠地三河に攻め入り、家康の家臣奥平貞昌が守る長篠城を取り囲んだ。これに対し家康は信長に援軍を要請し、徳川・織田連合軍は、長篠城から少し離れた設楽原に布陣する。5月20日、勝頼は三千の兵を長篠城付近に残して設楽原に進軍し、川を挟んで対峙する。翌21日長篠合戦が始まった。勝頼は、連合軍の出方を見ながら慎重に攻撃を仕掛ける。開戦から一刻ほど経過したとき、勝頼のもとに徳川軍の酒井忠次隊から奇襲―323――323―
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