を受けたとの知らせが届く。武田軍の背後は断たれたが、目視できる正面の敵は少なかったことから、勝頼は総攻撃の決断に至る。結果、合戦は連合軍の勝利に終わり、勝頼は初めての大敗を喫した。長篠図では、画面右手に徳川軍酒井忠次隊による鳶巣山砦の奇襲や奥平貞昌が守る長篠城から城兵が出撃する様子を、雲を挟んで画面左手において、設楽原で対峙する武田勝頼軍と徳川・織田連合軍を描く。この構図は、本作以前の同主題屏風と同様である。謙柄寄贈模本には、成瀬家本の模本である「長篠合戦図屏風模本」(東京国立博物館蔵)(以下、成瀬模本と呼称する)が含まれる。施された署名には「香取伊広写之」・「柿原判次惟景写」とあり、両名は伊川院栄信と養川院惟信の弟子とみられる(注8)。成瀬家には、『享和元酉年長篠長久手御陣場之図御屏風、雪村筆剣研鍾馗之画、入上覧候留』という冊子が伝わることから、成瀬家本が享和元年(1801)に11代将軍家斉の御覧に供されたとわかる(注9)。将軍家や尾張徳川家から、たびたび成瀬家本の閲覧希望があったため、このような借覧要請に応えられるよう、貸出用の副本が用意されたほどであった(注10)。これを踏まえると、成瀬模本は東博下絵の制作に取り掛かるにあたって模写された作品と考えるのが妥当だろう。しかしながら、成瀬模本の構図を踏襲する一方で東博下絵は、武田軍が連合軍の鉄砲隊の前に為す術もなく倒れゆく表現から、連合軍の馬防柵付近にまで攻め寄せる武田軍の奮闘を加味した、両軍混戦の様相へと変容した。例えば、第5幅上部にみる武田軍土屋昌次隊や真田信綱・昌輝両隊は、成瀬家本において、連吾川の手前で討ち取られる描写であった。ところが、本作では連吾川を越え柵際まで押し寄せ、破ろうとするほどである。この改変については、東博下絵とともに謙柄から寄贈された『長篠・長湫両御陣武徳大成記ス所抜書畧』(以下、『抜書』と呼称する)と『長篠寄書』(以下、『寄書』と呼称する)を取り上げたい。『抜書』は、冒頭に「武徳大成抜書、諸記録同意之事ハ不記、尤、絵様要用之外事ハ除、」と記すことから、『武徳大成記』から「長篠・長湫」図の「絵様」を形成するにあたって必要な部分を抜粋した記録とみられる。さて、第5幅上部の場面を『抜書』は、「〇土屋右衛門、柵際に戦死す、〇真田兄弟、其徒士と柵を破り進ミ、戦備を破ること重ふして死たり、」と記す。これは東博下絵の描写と一致する〔図2〕。また、成瀬家本第1扇中部において、橋上から敵兵を鑓で突く尾崎半平は、東博下絵では両者河中で交戦する描写となった〔図3〕。この場面も『抜書』は、「敵一騎渉り来るを尾崎半平、河中迠乗入、迎へ撃て、敵再大ニ敗る、」―324――324―
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