鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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とあり、描写と記述が重なる。(注11)。次に『長篠寄書』をみていこう。『寄書』は、『参州長篠戦記』を中心に、各家の「家記」や、諸大名の由来や事績を集録した『藩翰譜』、家康前半期の重要ないくさと位置づける姉川・三方ヶ原・長篠・長久手の四戦を取り上げる『四戦紀聞』などの抜書を基に構成される。その内容は、戦地の地形から、徳川方・織田方・武田方それぞれの部隊の動向や各武将の逸話を取り上げる。東博下絵で改変が認められた尾崎半平の場面について、『寄書』は『四戦紀聞』を引用し、「〇十九丁メ 城門橋之上ニ而、堀之内水中ニ居候武者ヲ討候者、〈御味方〉松井左近か部下尾崎半平也、」と、尾崎半平の所在を原本の成瀬模本と同じ「橋上」とする。また、徳川軍大久保兄弟の所在についても「先鋒大久保七郎右衛門忠世・柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎砲卒之頭たり、忠世是等を引率して、柵外十町餘進て、敵を待、」とあり、『寄書』の内容は柵際で武田軍を待ち構える従来の描写に通ずる。このように『寄書』は、東博下絵の図様とすべて重なるわけではないといえる。東博下絵の制作にあたっては、成瀬模本や『抜書』、『寄書』など複数の依拠資料が参照されたとみえ、その中でも図様選択にあたって重用されたのは『抜書』であり『武徳大成記』の内容であったと認められる。一方の長久手図は、長篠図と同様成瀬模本から構図やモチーフを踏襲する一方で、画面をとらえる視点を下げ、各所に配した雲や、大小の樹木、丘の起伏によって遠近感を表す。また、従来の同主題屏風には登場しない徳川譜代家臣を大幅に描き足し、雑兵の数を多くすることで、狭い山間部に多くの兵士が雪崩れ込むような軍勢の勢いを演出する。長久手合戦は、天正12年(1584)に尾張北部において、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍が犬山・小牧で対峙したのち長久手で衝突したいくさである。合戦は3月から11月にわたる長陣で、両軍睨み合いと小競り合いのすえ講和に至る。一般に「小牧・長久手合戦」と呼称されるが、現存の屏風絵は長久手合戦のみを取り上げる作例が多い。画面では、徳川軍井伊直政隊が羽柴軍堀秀政隊を迎え撃つ場面や、その後家康率いる本隊を加えた徳川軍が、仏ヶ根・烏狭間で羽柴軍池田勝入信輝(恒興)・元助(紀伊守恒毎)隊、森長可隊を撃破する場面を表す。すでに東博下絵以前の長久手図から、井伊直政組打、甲州衆の活躍、池田勝入や森長可の最期の場面を描くのが定型であった。東博下絵でもこれらのモチーフを踏襲する。なかでも森長可の最期は、成瀬模本において、戦場の中心から離された場所(第―325――325―

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