5幅上部)に配されたが、東博下絵は異時同図法を用いて中心部の二ヶ所に描く。『抜書』では、「(森)長一自鑓を提て士卒を指揮し、衆に先達而勇ミ戦ひ、杉山孫六か鉄砲に中て即死す」と記す。まさにその描写を第2枚中部にみることができる〔図4〕。また、池田勝入が長田伝八郎(永井直勝)の手にかかり最期を迎える場面では、「勝入、傳八郎を見て曰く、汝我首を斬て他日高名に誇るへし」と自ら名乗りあげた逸話を記す〔図5〕。これは長篠図における馬場信春最期の場面と類似する逸話ともとれ(注12)、両主題を通して敵将の武勇への賛辞を惜しまない姿勢を看取できる。一方の徳川軍は、成瀬模本と同様、井伊直政隊の活躍を描き、加えて鈴木重好・近藤秀用・菅沼忠久という井伊谷三人衆を追加する。また、第6枚から第8枚において、それまで描かれてこなかった徳川譜代家臣を数多く追加し、羽柴軍を激しく追撃する様子がみえる。長久手合戦は、寛永17年(1640)に徳川家光が奉納した「東照社縁起絵巻」にも採用され(注13)、東博下絵の制作作業と重なる時期に刊行された頼山陽『日本外史』にも「公の天下を取るのは、大坂に在らずして関原に在り。関原に在らずして、小牧に在り」(注14)と評価されるほど、徳川幕府成立を語るにあたり重要ないくさと位置づけられた。このような評価を得ていた合戦を東博下絵は、家康を支えた譜代家臣の活躍をより顕著に描くことで、将軍家奥向の意向に応えたと推察する。最後に、東博下絵の主要依拠史料とみる『抜書』について、原本である『武徳大成記』の特質に触れておきたい。『武徳大成記』は、徳川綱吉の命を受けて天和3年(1683)から貞享3年(1686)にかけて林鳳岡ら主導のもとに編纂された書物である。その内容は、江戸幕府を開いた徳川氏を唯一無二の存在と位置づける徳川史観に基づき歴史を叙述するもので、江戸幕府が初めて編纂した幕府創設に関する歴史書である(注15)。柴裕之氏の分析では、徳川将軍家の武威が揺らぎ「内憂外患」の時代であった江戸後期に、神君家康を支えた家臣を称揚する動きがみられるという(注16)。東博下絵の主要依拠史料として、徳川史観に基づく『武徳大成記』を採用した背景には、このような社会情勢と少なからず結びついていると考える。三 東博下絵の図様形成─模本からの図様転用これまでみたとおり、東博下絵は複数のテキストや模本類を基に図様を考案したとみられる。本章では、謙柄寄贈模本に着目し、日記にみる模本類との同定と東博下絵への影響について明らかにしてみたい。―326――326―
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