謙柄寄贈模本の中には、「武田信玄出陣屏風絵(模本)」という作品名がみえ、日記に記載された「信玄備之図」を想起させる。「武田信玄出陣屏風絵」(以下、東博本)は、付属の袋に「武田信玄出陣屏風繪〈模〉拾七枚/八枚折屏風壱双料」とあり、現在も捲り2枚の状態で、武田信玄軍の陣備えを描く。本図と類似した作例はいくつかあり、17世紀前期制作とされる柏原美術館本「川中島合戦図屏風」右隻や、「武田信玄配陣図屏風」(富山県個人蔵本)、「武田信玄本陣之図」(茨城県個人蔵本)などが確認できる。東博下絵長篠図と東博本「武田信玄出陣屏風絵」を比較すると、徳川・織田連合軍の陣内において、陣太鼓を背負う人物や鐘を持つ人物ら、鑓を持ち隊列を組む周辺の足軽も含めて、姿態に類似点が認められる〔図6〕。また、馬印周辺の人物も姿態が共通する中で、武田信玄の「風林火山」の旗印から織田信長の「永楽通宝」への変更が認められる〔図7〕。このように図様転用は、「武田軍だから武田軍に転用する」とは限らない、あくまで「造形」としてとらえ、図様転用を行なったのである。以上のように「武田信玄出陣屏風絵」は、東博下絵長篠図への図様転用が認められることから、「信玄備之図」に相当すると推察する。次に長久手図をみていく。この検証にあたっては、東京国立博物館本「保元平治合戦図屏風模本」を取り上げたい。本作は、天保8年(1837)に晴川院が弟子らとともに模写した作品で、その図様はメトロポリタン美術館本「保元平治合戦図屏風」と類似する(注17)。長久手図と比較すると、飛び上がって敵兵を鑓で背後から突き刺そうとする武者や、髻を掴み刃を向ける武者などの姿態の描写に共通点が認められる〔図8〕。『公用日記』(文政11年7月4日条)にみる模本類には、「保元平治屏風抜写」があることから、東博本「保元平治合戦図屏風模本」と類する作品から図様を転用したと考える。このように東博下絵は、群衆表現を中心に前代の合戦絵から図様を転用していることが認められる。おわりに本稿では、東博下絵を分析対象に据え、その成立についてみてきた。その結果、絵師の許には多くの書物や模本が集められ、将軍家奥向の意向に合わせてテキストの内容を選択しながら図様を形成したとみられる(注18)。また、脇役である雑兵を中心に群衆表現においては、既存の図様を援用したことが認められた。雑兵はテキストではあまり姿態について言及されることが少ない一方―327――327―
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