図版出典ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)⑿長篠図第2幅上部では、武田軍馬場信春の最期を描く。「馬場小堆に登て大に呼て曰、我ハ馬場美濃なり、我を殺して名をなさゞるやと云と、刀を抽すして遂コレに死す、」(『抜書』)とあるように、自ら名乗りを上げて討ち取られた。『寄書』もこの逸話を取り上げる。⒀松島仁『徳川将軍権力と狩野派絵画』(ブリュッケ、2011年)、91頁。⒁頼山陽『邦文日本外史改版』(真之友社、1937年)、765頁。⒂平野仁也『江戸幕府の歴史編纂事業と創業史』(清文堂、2020年)、133頁。⒃柴裕之「【実像編】徳川家臣団(四天王を中心に)」堀新・井上泰至編『家康徹底解読』(文学通信、2023年)。⒄東京国立博物館本「保元平治合戦図屏風模本」には、「勝川十五歳摹」とあることから、勝川が数え年で15歳である天保8年に制作された作品とわかる。⒅『抜書』や『寄書』について、現在内閣文庫所蔵となる『武徳大成記』や『参州長篠戦記』・『四戦紀聞』などと記述を比較するとほぼ同内容であることから、原本は紅葉山文庫のものと推察する(『大日本史料』第10編之30(東京大学史料編纂所、2021年))。―329――329―
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