③ 1939年ナチ・ドイツへの日本美術作品寄贈から見る日独美術交流研 究 者:筑波大学 芸術系 研究員 江 口 みなみはじめに1939年9月にニュルンベルクで開催予定であった第11回ナチ党大会への招待を受けて、王子製紙株式会社会長の藤原銀次郎は日本の産業界代表として派遣された。これに際して藤原は日本画作品62点および川端龍子原画の綴織1点を携行し、ドイツへ向かった。このことは当時「豪華なお土産」として大きく報道され、政治的にも注目された。しかし藤原は第二次大戦開戦時の混乱に巻き込まれ、作品贈呈はどうにか決行されたものの日本では贈呈後の続報は見当たらず、作品は現在も所在不明である。安松みゆき氏は論考「ヒトラーへの贈り物・ヒトラーからの贈り物─いびつな美術交流の様相」において、ナチ・ドイツ期における日独間の美術・工芸の贈呈を概観し、本作品贈呈についても絵画贈呈のうち「質・量ともに突出した事例」として取り上げた(注1)。今回、筆者の調査によって贈呈の経緯やドイツ側の動きをより詳細に捉えることができた。本論文では、まず贈呈に関わる日本側の状況を確認し、つぎにドイツにおける受贈後の展開をたどることで、不安定な情勢において贈呈作品が果たした政治的役割について考察する。1.ナチ党大会への招待ナチ党の党大会とは、ニュルンベルクで毎年1週間程度をかけて開催されていた祝祭的な行事で、党会議だけでなく党内各組織の集会や式典、マスゲーム等が行われた。1934年の党大会を取材したリーフェンシュタール監督の映画『意志の勝利』に明らかなように、国民の戦意を高揚し民族共同体の意識を共有する場として機能した。日本はドイツと1936年に日独防共協定を結び関係を強化してきたため、1939年の党大会への招待は栄誉であり重要な外交案件であった。だが、この党大会参加をめぐる動きは慌ただしいものであった。まず1939年7月12日付在日ドイツ大使オイゲン・オットから外務大臣有田八郎への書状により、同年9月に開催予定の党大会について、ヒトラーが陸軍の寺内壽一を招待する旨が正式に伝えられた(注2)。寺内に加えて海軍からは大角岑生、金融界の代表として東京瓦斯株式会社の社長井坂孝、そして産業界の代表として藤原銀次郎が選ばれた。寺内、大角、井坂は早くも7月20日に出発したが、藤原のみ贈呈予定の作品をともなって8月6日に横浜港を出発した。しかし8月23日に独ソ不可侵条約が締結されたことにより―24――24―
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