鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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(2)細川斉茲と実景図細川斉茲は、宝暦9年(1759)、宇土支藩主細川興文の三男として誕生。宝暦13年、立礼と名乗り、安永元年(1772)、父興文の蕉夢庵隠居に伴い家督を継いだ。天明7年(1787)、宗家の7代藩主細川治年が早世し、嗣子も幼少であったため、熊本藩主となった。同年12月、従四位下侍従に叙任し、将軍家斉の諱を与えられ、名を斉茲と改めた。斉茲は芸術に対する造詣が深く、とくに絵画については、明清の中国絵画を収集し、御用絵師に絵巻物の模写をさせ、森派の森徹山を藩臣として登用して従来の熊本にない画風を取り入れた。さらに自らも本格的に作画を行い、たとえば斉茲筆《猫図》(永青文庫蔵)は、単に殿様が狩野派の粉本を元に嗜みとして描いた程度のものではなく、胡粉を用いて細緻な毛描きを施し、猫の姿を生き生きと描き出した作品である。このように、絵画への傾倒具合は相当なものであった。斉茲が発注した風景画として最も名高いのは、谷文晁筆《東海道勝景》(永青文庫蔵)であろう。これは、品川から大津までの全20図からなる東海道の名勝を描いた画巻で、落款はないものの、細川家の記録と描写の特徴から、谷文晁によることが明らかな作品である(注4)。斉茲は、松平定信と懇意であり、当時細川家の所蔵であった《蒙古襲来絵詞》を定信に貸したり、定信から掛軸が送られるといった交流があった。松平定信は「山水癖」と呼ばれる風景画愛好大名の筆頭格であり、谷文晁に各地の風景画制作を命じている。また松平定信には、君主が領内を巡覧して、美しい風景を味わうとともに領民を愛しむことを是とする考え方があり、それが定信の時代に紀行文「巡覧記」や《領内名勝図巻》などの実景図が盛んに制作されたという説もある(注5)。さらに、斉茲の晩年である天保3年には、衛藤良行の弟子である杉谷行直に富士登山と実景図制作を命じ、その実景図を見てあらためて制作を命じたものである《富士登山図巻》(永青文庫蔵)も伝わる。良勝は七合目までの登山であったが、行直は吉田口から登山の行程と山頂の火口、さらに山頂からみた風景を臨場感に溢れた表現で描かれる。さて、先述のように《領内名勝図巻》は、斉茲が「紀州様、水戸様、そのほか御同席様方へも御覧に入れる御約束」したため、矢野良勝と衛藤良行は、参勤交代に出発する寛政5年(1793)2月までに作品を完成させるように厳命され、不眠不休で制作にあたったという(注6)。このエピソードからは、「絵画交流のサロン」という優雅なイメージからかけ離れた、重要な藩事業という印象を受ける。―335――335―

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