鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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(3)細川家の「文化外交」大名同士の「絵画サロン」として関連付けて考えたいのが、6代藩主細川重賢による博物図譜を通した絵画交流である。重賢は、4代藩主細川宜紀の五男として生まれ、本来では藩主を継ぐ立場ではなかったが、延享4年(1747)、兄の5代藩主細川宗孝が、江戸城内での殺傷事件に巻き込まれて不慮の死をとげたため、急遽藩主となった。重賢は、宝暦2年(1752)より、側近の竹原玄路の建言により堀平太左衛門を大奉行に抜擢して、いわゆる「宝暦の改革」を行った。改革では、商品作物の奨励と統制による財政改革、近代的な刑法の整備、そして藩校時習館と医学校再春館を開校し、人材育成を強化した。細川重賢は「肥後の鳳凰」と呼ばれ、名君として全国的に知られるようになった。法制史家の高塩博氏によると、重賢の「宝暦の改革」が全国の藩政改革のモデルとなり、松平定信の「寛政の改革」も重賢による改革を参考にしたものであったことが指摘されている(注7)。また、磯田道史氏は、重賢の改革が全国の藩政改革のモデルとなった一例として、水戸藩による寛政11年(1799)からの徳川治保による藩政改革を挙げている(注8)。松平定信や徳川治保は、細川斉茲と《領内名勝図巻》をはじめとした風景画を介した交流があった。一方で、重賢は博物学に傾倒し、数々の博物図譜を制作した。そして、収集した動植物の図像を大名間で貸し借りし、それぞれの大名家で図像を集積していったとされる。今橋理子氏によると、重賢が編纂した鳥類の図譜は、重賢と並んで博物学に傾倒していた大名であった高松藩主松平頼恭からもたらされた図像が含まれ、さらに重賢が所持していた図像を、秋田藩主で秋田蘭画の中心的人物である佐竹曙山が模写をするなどのやりとりがあった(注9)。このほかにも、松平定信の寛政の改革を助けた佐野藩主堀田正敦、薩摩藩主島津重豪、伊勢長島藩主増山正賢(雪斎)、高知藩主山内豊雍、鳥取藩主池田重寛などとネットワークを築いていた(注10)。このように、政治改革において重賢は全国的な先駆者として注目される存在となり、さらに博物図譜をめぐる大名間交流においても中心的に立ち回った。博物図譜のネットワークについては、重賢が生来の学問好きがあり、その純粋な知的好奇心が根本となっていたのは間違いない。しかしそれに加え、政治的な外交の側面があったと考えてみたい。藩政の安定と藩主が文人趣味に興じるのは表裏の関係で、強固な行政機構を構築し安定した藩政を確立してこそ藩主が安心して趣味に没頭できるわけで、博物図譜をめぐる重賢の積極的な交友は、藩政改革の成果を誇示する狙いも含まれていたのではな―336――336―

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