(4)斉茲の父・細川興文と《蕉夢庵景勝図画詩文合巻》かろうか。とくに、細川家は重賢就任前の藩財政は困窮の極みであった上に、細川家は完全な被害者ながら当主宗孝が江戸城中で切り付けられて死亡するという混乱状態にあった。重賢は、財政再建とともに、藩政の安定を幕府内にアピールする使命感もあったと思われる。そしてこの背景には、8代将軍徳川吉宗の政策があるだろう。博物学の流行は、吉宗が各藩から動植物名を調べ、『産物帳』を提出させ、その集まった報告書が『諸国産物帳』として編纂された。これが契機となり、江戸で本草学が流行し、博物図譜の制作が各藩で制作されるようになった。また、吉宗はとくに中国の古画を愛好し、そのことを知った諸大名や旗本たちは秘蔵の品を次々と御覧にいれ、そのなかで目に適ったものを、自ら模写したり、狩野派に写させて多くの粉本が備わったとされる。吉宗の政治的助言者であった荻生徂徠の影響も相俟って、江戸では18世紀前半に中国古画を重んじる空気が醸成されていた(注11)。重賢は部屋住み期に、このような吉宗政権下の文化に触れ、博物学への傾倒や、矢野派の雪舟流回帰を進めることにつながったと考えられる(注12)。重賢の施策は、幕府における時流に沿ったものであったといえよう。このように、斉玆の代における《領内名勝図巻》の制作や、それを他大名に披露するという「文化外交」の契機は、重賢の代に求められるのである。そして、もう一つ《領内名勝図巻》の前史的な位置づけとして念頭に入れておきたいのが、細川斉茲の実父で宇土支藩主であった細川興文(月翁)の存在である。宇土細川家は、正保3年(1646)に、時の熊本藩主細川光尚が忠興の四男立孝の遺児宮松(のちの行孝)を宇土3万石で取り立てて成立した。宇土細川家は、文学や歴史に強い関心を持った初代行孝、絵画に力を発揮した2代有孝など、文化に造詣の深い藩主が数多く輩出されている。また、永青文庫に所蔵される《利休尻膨》、伝雪舟筆の《琴棋書画図屏風》といった名品は、元は宇土細川家に伝わったものである。そのような家に生まれた細川興文は、重賢や斉茲と並ぶ多芸多才の文人大名であった。漢詩をはじめ、和歌、書画、琴、尺八、茶道などの文事にも造詣が深く、とくに漢詩は高い評価を受けていた。また、作画に関しては墨蘭図を得意としていたようで、現在も多数の作品が伝わる。藩政面においても、重賢と協力して藩政改革を行い、櫨や蝋、紙の専売等による殖産興業政策や、藩校時習館の創設に応じて藩校温知館を設置による教育制度の確立で成果を挙げた。5歳違いの重賢と興文は、ともに多彩な教―337――337―
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