鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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養を持った文人大名として親しい関係にあった。興文をめぐる作品に、渡辺玄対筆《蕉夢庵景勝図画詩文合巻》〔図5〕(宇土市教育委員会蔵)がある。中村真菜美氏によって詳細に紹介されたこの作品は、興文が領内の桂原(現宇城市不知火町)に設けた隠居所である蕉夢庵と、庵内と周辺の眺望を選定した15景を絵画化し、興文と交流のあった諸大名や文人によって多くの漢詩が寄せられた作品である(注13)。渡辺玄対は、谷文晁の師とされる人物で、渡辺湊水の養子となり、その後中山高陽の弟子となった。題詞は信濃高島藩主・諏訪忠林と陸奥泉藩主・本多忠如によるもので、江戸麻布の日東山曹渓寺の僧玄廣による跋が収録され、跋の後には、下野烏山藩主・大久保忠胤、大和郡山藩主・柳沢信鴻、近江宮川藩主・堀田正邦といった大名や、儒者・越智正山、漢詩人・横谷藍水といった人物が漢詩を寄せている。末尾には熊本藩士・米田松洞による14韻が書きつけられている。興文は重賢とともに服部南郭を慕っており、この作品の関係者にも、その背後に服部南郭や高野蘭亭を中心とする古文辞学派の系譜があることが中村氏によって指摘されている(注14)。興文は、この蕉夢庵への思い入れはかなり強いものであったようで、隠居が許される5年前の明和4年(1767)に江戸にありながら『蕉夢庵記』を記していた。さらに《蕉夢庵景勝図画詩文合巻》も明和6年に完成しているので、いわば隠居への憧憬として、理想化した空間として描いており、隠居前の江戸詰めの際に、江戸で交友のあった大名や文人たちに題や漢詩を寄せてもらったのである。その後、明和7年に、蕉夢庵の設計図である「宇土郡山中蕉夢庵造作明細書并九勝地題刻文字置方」を作成し、建築の設計から材料の種類、形まで図入りで説明書きをつけている。明和9年(1772)に隠居が許され、安永3年(1774)に蕉夢庵にて剃髪し、月翁と名乗った。《蕉夢庵景勝図画詩文合巻》は、明代蘇州の園林画の延長線上に位置づけられ、宇土の実際の風景を題材にしているものの、興文の漢詩を絵画化することに重きが置かれている。したがって、《領内名勝図巻》などの実景図とは性格が異なるが、中村氏は、領内巡覧によって風景の趣を味わうとともに領民を慈しむという意識が込められ、その意識は《領内名勝図巻》や、《東海道勝景》にも共通すると推測している(注15)。このように、斉玆の父興文も、江戸においてさまざまな大名と漢詩を通じた交友を持っていた。斉玆は、専門絵師顔負けの作画をはじめとして、やはり多才多芸の大名であったが、それは父興文からの影響が強いだろう。そして、《領内名勝図巻》を諸大名に披露するという交流も、本家の重賢とともに、興文の活動を範にしたと考えられる。斉玆の文化活動を考える上で、この二人の江戸における文化交流を踏まえてお―338――338―

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