日独防共協定が破綻となり、ヨーロッパの情勢も一気に緊迫した。8月26日には在独日本大使館付武官より党大会中止の発表が速報され、寺内らの訪独は一旦中止となった(注3)。別便の藤原は29日にブレーメンに到着したが、ベルリン行きを断念してストックホルムへ向かい帰国の途へ就いた。このように一行は、身をもって開戦前夜の緊張状態を感じることとなった。2.贈呈作品の選定1939年7月27日読売新聞夕刊の記事には贈呈品決定の経緯が記されている。これによると、藤原は贈呈品について国際文化振興会副会長の岡部長景に相談し、同年2月の伯林日本古美術展覧会で古美術を紹介し絶賛を博したことを受けて現代の作品を贈ることに決めた。国立博物館群総長のオットー・キュンメルからも歓迎の意が示された。結果として川端龍子が原画《潮騒》を描き綴織二張を壁掛けに仕立てたものをヒトラーへの贈呈品とし、現代日本画作品61点は国立博物館への贈呈品とすることになった(注4)。藤原の訪独決定が7月13日であり、8月1日には東京美術倶楽部において贈呈品の展観、その5日後には出発という早急な進行であった。川端龍子による原画《潮騒》(1937年)は、現在髙島屋史料館が所蔵している。龍子は『髙島屋美術部五十年史』に寄せた小文において、もともと本作は1940年に予定されていた紀元2600年記念日本万国博覧会のために制作したものだが、博覧会は中止となり藤原の訪独に際し髙島屋が相談を受けてドイツへの贈呈品としたことを明かしている(注5)。また日本画作品について、7月27日の読売新聞記事は岡部と藤原が作品を蒐集し日本画61点を選び出したとしているが、『日本美術年鑑』の記事では作品選出について「これらの作品はかねて岡部長景子爵の主宰する尺貫法存続連盟に、同運動援助のため各作家から寄贈されたものである」(注6)とある。要するに岡部と藤原は作品を個別に選び集めたのではなく、ちょうど岡部の手元にあった作品群を贈呈品へと転用したのであった。尺貫法存続連盟とは、日本におけるメートル法の普及により尺貫法が捨て去られることを憂い、日本の伝統として存続させるべく1933年に発足した組織である。連盟の意志に賛同する日本画家が寄せた作品65点は、1939年の春に東京と京都の華族会館において展観された(注7)。また、この展観を記念して連盟は図録『尺貫法存続聯盟記念展観六十五品』(大塚巧藝社、1939年12月)を作製した。図録の序文において岡部はドイツへの作品贈呈について全く触れていないが、図録刊行はドイツへの作品発送後のことであり、各作家へドイツ寄贈品への転用がどのように説明されたかは不明である。―25――25―
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