㉝ 渡辺玄対研究─「関東南画」の展開を見据えて─研 究 者:石川県立歴史博物館 学芸員 中 村 真菜美はじめに本研究は、江戸時代中後期に活躍した画人・渡辺玄対(1749~1822、名は瑛、字は廷輝)の再評価を試みるものである。18世紀前半以降、日本では南宗画を中心とした明清の絵画・画譜類の影響を受け、所謂「南画」が興隆。関西に遅れて関東でも展開する。玄対は養父の渡辺溱水(1720~67)および師と伝わる中山高陽(1717~80)の後を受け「南画」の江戸での定着に寄与した存在として、また「関東南画」の大成者に位置づけられる谷文晁(1763~1840)の師として認知されてきたが、画業の内実が十分に検討されてきたとは言い難い。「関東南画」は地域性に着目した後世の枠組ではあるが、高陽の画論書『画譚雞肋』(安永4年成立)で説かれた古画を参照し、長所を折衷しながら作画する重要性は、玄対や文晁も標榜しており、世代間で学習態度の継承が認められることは先学の指摘するところである(注1)。そのため、玄対の活動実態の解明は「関東南画」の性質をより深く理解する上で重要と考えられる。本稿では、具体的な作品を取り上げ、玄対の画風形成のあり方および人的交流が玄対の作画活動に与えた影響を検証したい。一、渡辺玄対小伝—文辞を解する画家—はじめに玄対の略伝を確認する(注2)。玄対は寛延2年生まれ、文政5年に74歳で没した。著作は生前に発刊された『玄対画譜』山水部5冊(文化3年成立)、仙佛・花卉翎毛部2冊(刊行年不明)(注3)、没後に上木された人物部として『玄対画譜遺稿』1冊(天保5年成立)がある。生家の内田氏は三重郡鵜川原村の出。玄対の曾祖父が江戸に移住、医術を家業とした。玄対の実父・玄諄は三度妻を迎え、五男三女を得た。学究肌の玄諄は三男の内田鵜洲(1736~97)に期待をかけ、幼少より古学を学ばせた。玄対は末弟にあたり、誕生の翌年に父を亡くした。宝暦8年(1758)、玄対は10歳で、麻布古川町に画室「鋤雲館」を構える溱水に預けられることになる。内田家と渡辺家は姻戚関係にあったとみえ、継嗣のない溱水は玄対を気に入り、翌年には養子に取った。明和4年に溱水が48歳で没すと、当時19歳の玄対は内田家に復した。しかし溱水の―353――353―
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