3回忌までは渡辺姓を冒すことを決意し、結局61歳の隠居まで名乗ることとなる。明和5年に近隣に住む異母兄・鵜洲の家に移ると、以降30年間同居。鵜洲は荻生徂徠の系譜につながる儒者で、兄の教育があってか、玄対は後世に「文辞を解す」(金井烏洲『無声詩話』)(注4)として評価されている。そして、この漢学の素養は玄対が需要を獲得する上で大いに作用したと考えられる。玄対が23歳頃に手掛けた『蕉夢庵景勝図画詩文合巻』(宇土市教育委員会蔵、明和8年頃)では、熊本宇土藩主・細川興文が自らの隠居所と周辺の佳景を題材に詠んだ詩を的確に解釈し、その情趣を描き出した(注5)。こうした玄対の作風は「文人大名」たちの嗜好に合ったらしく、大和郡山藩主・柳沢信鴻や伊勢長島藩主・増山正賢、姫路藩主・酒井忠道の知遇を得たことが指摘されている(注6)。また松代藩主・真田幸弘(1740~1815)が書す唐詩(王維「竹里館」・韋応物「答李澣」・太上隠者「答人」・孟浩然「春暁」・裴迪「鹿柴」・賈島「尋隠者不遇」)に絵を添えた「唐詩選屏風」(寛政11年、真田宝物館蔵)〔図1〕が伝世する(注7)。どの詩も脱俗した穏やかな暮らしを詠み、寛政10年に隠居した幸弘の心境を示すと考えられる。玄対は詩の景物を確実に押さえ、配置や人物のポーズで音や些細な動きを表現している。幸弘は玄対を席画に召すなどかなり懇意にしていた(注8)。幸弘の追善句集『ちかのうら』(文化12年)は幸弘の遺句を玄対が描いた「千賀の浦図」〔図2〕を巻頭に配し、玄対が10歳の時に遡る縁を記している(注9)。玄対は大名文化圏に根付いた南画家であったと言えよう。玄対が特に親しかったのは同庚の市河寛斎(1749~1820)と大田南畝(1749~1823)であり(注10)、江戸文壇の大物である両者を介した付き合いも多かっただろう。仔細は別に譲るが、交友関係を読み解く手掛かりとして、狂歌師・鹿都部真顔が南畝より判者を譲られた記念の句集『四方の巴流』(寛政7年刊)、儒者・大久保狭南が郷里・武蔵多摩郡を詠じた『武埜八景』(寛政9年序)、仙台瑞鳳寺の僧・南山古梁の法帖『山菴茶寮記並山菴雜詠自序』(文化11年刊)〔図3〕、増上寺の寺誌『三縁山志』(文政2年序)に画を寄せることを指摘しておく。玄対は五男三女に恵まれ、長男で画家の赤水(1776~1833)以外はその子孫も含め、内田姓を称させた。次男は陶丘(?~1808)(注11)、三男は名を琮(宗三郎)、長女は琴友、次女は春江(りつ)、三女は春山といい、皆絵を能くした。四男は不詳だが、『古画備考』に載る放蕩息子に当たるか(注12)。五男は玄機、名を樞、林泉と号した。書を学び、後に三井姓を名乗る。玄対は子の教育に熱心で、12歳の陶丘には赤水と一緒に大勢の客の前で画技を披露する機会を設けた(「旭山先生贈邊童子兄弟―354――354―
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