鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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序」)(注13)。玄対は画事を溱水以来の「世業」として誇っており、古稀を祝う書画帖の版刻『林麓耆老娯観』(文政2年刊)は雅交の集大成であるとともに、10歳の孫までが参加し、内田(渡辺)家の繁栄を寿ぐ意図が認められる。二、溱水の影響玄対が長命を保ち、「関東南画」の草創期から確立期を見届けたことは特筆に値する。それでは玄対は「関東南画」の創始者ともされる溱水からどのような教えを受けたのだろうか(注14)。10歳で入門した玄対にとって養父の存在は大きかったに違いない。伝世品の少ない溱水については、長崎に遊学し、南蘋風の花鳥画を得意としたとする画伝が引かれるに留まり、没後に遺作を纏めた『辺氏画譜』が発刊されていた事実には殆ど注意が払われてこなかった(注15)。折本で全19面からなる本画譜は、溱水が描く花鳥人物山水に屋代師道、細井平洲、服部仲英、鵜殿士寧、麻布曹渓寺の僧・玄廣が着賛、鵜洲と河原保寿が詩を寄せ、大竹麻谷が跋を付す。溱水の墓誌に知己として記される儒者や書家の面々で、平洲の着賛が寛政9年、跋を著した麻谷が同10年に没したことから、この間の成立と推定される。本画譜を見れば、玄対が師父の作風を基礎としたことが了解されよう。第3面「桜花図」〔図4〕は、うねる幹と枝からなる動的な画面、特徴的な節の入れ方や幹の中央にハイライトを入れる描法がいかにも南蘋風である。こうした南蘋画法はお家芸になったとみえ、玄対が忠実に引き継いだことは「柳ニ翡翠図」(板橋区立美術館蔵)[図5]のような作品から窺える(注16)。第15面「後赤壁図」〔図6〕にみる人物表現は、『芥子園画伝初集』にみる点景人物に基づくように思われるが、玄対も踏襲している。溱水は中国の画譜類を玄対の教育にも使用した可能性が高い。また溱水の山水画は本画譜を見る限り、潤筆で披麻皴を用いた南宗画的な画面を得意としたようだ。一方、第8面「武陵桃源図」〔図7〕のような描き込みの細かい山水図もあり、作域の広さを感じさせる。玄対は溱水の「武陵桃源図」をよく学んだようで、自らの作品で細かいモティーフまで参照している〔図8〕。本稿筆者は玄対の描く「武陵桃源図」を4点確認しており(注17)、溱水ゆずりの得意画題と思われる。玄対は溱水から『辺氏画譜』に見る面々を筆頭に、交友関係も引き継いだと考えられる。明和の初めには、上野国下仁田に住む素封家・高橋道斎(1718~94)を親子で訪ね、当地で詩画を解する少年として記憶されている(注18)。道斎は一時的に市河―355――355―

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