寛斎の養父であった人であり、玄対と寛斎の縁は道斎を介して結ばれたと想定される。玄対の修画期には中山高陽も指導に当たったと考えられている(注19)。現状、同時代資料からは裏付けられないものの、地縁や交友圏の重なりを考えれば、高陽と面識があっても不思議ではない。本節で見たように画風の面では溱水の影響が大きいようだが、弱冠16歳の玄対が示した絵画観に高陽との一致を見出すことができる。三、宝暦度朝鮮通信使との唱和にみる絵画観写本『加模西葛杜加国風説考』(国立国会図書館蔵)に合綴される「傾蓋唱和集」は、宝暦14年(1764)2月29日、16歳の玄対が朝鮮通信使の製述官・南玉、正使書記・成大中、副使書記・元重挙、従事官書記・金仁謙、正使伴人・趙東観、画員・金有声(号は西巌)と江戸の客舎・本願寺で面談した様子を伝える(注20)。底本は不明。溱水は病気で来られず、黄彦明なる人物が玄対に伴った。黄彦明は不詳だが、仁謙の『日東壮遊歌』に帰途につく一行を品川まで見送った日本人として登場する(注21)。玄対は溱水の絵と、自らの七絶と著色花鳥画を献上、通使から「君詩甚善」や「詩情筆妙」といった温かい言葉を掛けられた。注目したいのは画員・金有声との中国絵画に関する問答である。余曰、先生学宋人之画[乎]学明人之画乎西巌曰、古画多未見、不能歴告、而明沈周之画最名古今、欲学此法、而難及云々余曰、清人沈南蘋者善彩画、先生見彼画否、我邦国之諸画人甚珎之、妙彩色者、筆意甚拙西巌曰、我未見彼画余[曰]、貴邦接近中国、而不見彼画何也西巌曰、陸路而無水漕之利、中國之物多不傅西巌曰、君携来画筆、請贈余、余乃贈之玄対は大陸から来た有声が中国絵画に精通すると期待し、宋・明の絵画の情報を得ようと試みるが、有声は古画を殆ど見たことはなく、明の沈周に学びたいと答えるに留まった。それでは、清の沈南蘋はどう評価するか尋ねるが、見たことがないと返されてしまう。日本を席巻した南蘋が朝鮮で無名である事実は玄対を驚かせただろう。ここで玄対が南蘋は彩色に優れるが、筆意は甚だ拙いと述べたことは興味深い。玄―356――356―
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