対が若くして画法の長短を冷静に見る批評眼を持っていたと言えよう。そしてこの南蘋評は「沈南蘋、鄭培、高均など巧は不可云候へ共、格低く元明の畫とは大異に候」(岩井玉洲宛書簡)といった高陽の言葉を彷彿とさせる(注22)。彼らは南蘋画に倣った作品を制作したものの、手放しに評価していたわけではなかった。若い玄対がこの南蘋観に至った背後には高陽という指導者の存在を思わせる。無論、南蘋画を軽視していたという意味ではない。例えば玄対筆「花鳥図」(個人蔵)〔図9〕は番いの綬帯鳥がとまる紫木蓮に、小禽と花々を添える一図で、款記「乙巳晩春冩為嘯園主人邉瑛」より天明5年(1785)、南部藩士にして、故郷に大規模な別号・嘯園を営んだ牧田盛林(1752~1816)に贈られたことが判明する(注23)。本図の綬帯鳥は玄対の蔵印「玄対珍玩」を押す南蘋画〔図10〕に基づくと考えられ、日本で見られる貴重な中国絵画として真摯に学んだことを裏付ける。次章で詳しく検討するが、実際に目にできる作品に重きを置く実証的な態度は、玄対の中国画学習の基本姿勢であったと想定される。なお有声に話を戻すと、この時玄対に贈った山水画の写しが版画として伝わる〔図11〕。水景の奥に頂を横に屈曲させた山塊がのぞく画面で、左上には落款「甲申暮春朝鮮西岩為日本邉瑛冩」/方印「仲玉」「金有声印」がある。制作経緯は不明だが、尼崎市立歴史博物館蔵本の左隅には朱文長方印「享和改元邉氏画印」が押され、40年程後の享和元年(1801)に刻された可能性がある。宝暦度朝鮮通信使との邂逅はその人生において忘れがたい経験であっただろう。四、『玄対画譜』にみる中国画学習玄対が中国絵画を相当数所持したことは、陶丘が編んだ落款集『林麓娯観』(文化二年序)や複数の伝世品から窺え、特に浙派の殿将・藍瑛の12幅対の内「倣李唐山水図」と「秋壑雲泉図」の2幅は玄対の所蔵を離れる顛末も含め詳細が明らかにされている(注24)。鯖江藩儒・大郷信斎(1772~1844)の見聞録『道聴塗説』第二編(文政8~9年)によれば、麻布光林寺では毎年、溱水の忌日・8月3日に寺宝および渡辺家蔵の書画を風入したという(注25)。良則が目にした玄対旧蔵の中国絵画は唐寅の漁家図、仇英の晝錦堂図、周之冕の百花図で、他にも寺宝として仇英の独楽園図・山水人物図、銭穀の夏堂聴雨・雪渓漁艇対幅、陸復の墨梅、趙伯駒の三仙図、孫億の花鳥図などがあったという。真筆かは別として、これほどの数の舶載画が周辺にあったことは注目される。―357――357―
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