そして玄対は自らの知る中国画の情報を『玄対画譜』によって広く世人に益した(注26)。『玄対画譜』山水部の自序にて、画学は古画の臨模を第一とするが、長短得失を検討しながら中国の画譜類に当たることも有益だと説く。しかし古画はもとより、中国の画譜類も入手し難いため、自らが過眼を得た中国画に拠って本画譜を編むことにしたという。玄対は先人より「山水は之れ規当根縄を笠翁画伝に取れ」と教えられたらしく、山水部の構成は明らかに『芥子園画譜』初集を踏まえている。玄対は古画を樹木、山石、人物、家屋といったパーツごとに分解、細部を拡大し描法を研究するという極めて経験的なアプローチをとっている。例えば玄対が参照した舶載画の1つに呉筠なる画人が北宋・范寛の法に倣って描いたという「雲棧高林図」があり、『玄対画譜』の樹法・皺法・楼塔法はこの図に依拠するところが大きい。全体像は市河米庵の『小山林堂書画文房図録』(嘉永7年刊)に掲載され〔図12〕、呉筠は明代の画家とされるが詳細は不明、もとは12幅対で米庵は本図以外に「蒼松勁秀図」を見たことがあるという。玄対はこの画面を具に観察し、『芥子園画譜』に載る描法の実証を試みたようだ。中腹の樹叢や下部の崖からハングアウトする樹木を抜出したのは〔図13〕、『芥子園画譜』の「范寛春山雑樹」や「李唐懸崖雑樹法」〔図14〕との対照を意図してのことに違いない。精緻な写しからは限られた情報から、北宋山水画の遺風を掴もうとする懸命さが伝わってくる。このように玄対の中国画学習の神髄は徹底的に対象に迫ることにあり、その観察眼の確かさは「青緑山水図」(個人蔵)〔図15〕によって裏付けられよう。呉筠画に対する高い理解度を示すが、単なる写しではなく、右側の瀑布を補完するなど玄対なりのアレンジを加えている点は注目される。五、京坂画壇との接点冒頭でも述べたが、一般に「南画」は関西で興り、東漸したと概説される。玄対は発祥地たる京坂の「南画」をいかに捉えていたのだろうか。注目されるのは池大雅(1723~76)との関係である。既に先学が指摘するとおり、『玄対画譜遺稿』に大雅から玄対に宛てた書簡が模刻されており、両者に交流があったことは間違いない(注27)。大雅は「先便御揮毫御恵被下、精妙殊ニ尊人遺法感賞仕、同好ニ示申候」と記し、大雅に贈られた玄対の絵に対する礼のようだが、「尊人遺法」という言葉が気にかかる。本状には年紀がないが、溱水没後だとすれば、これは溱水の画風を玄対がよく継いでいるという賞賛ではないだろうか。溱水の描く劉阮天台図巻の跋を大雅が施したという伝承があり(注28)、大雅との縁は溱水以来で―358――358―
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